メキシコの国旗についての続きです。
伝説によれば、アステカの先祖たちが都を決めるためにさまよっていたころ、ウィツィロポチトリ神の「ヘビを咥えたワシがサボテンの上に止まっているのを見たらそこに都を築け」という神託があったとされ、200年間もさまよっていた人々はその神託に従い、テクシココ湖の中の島に現在の首都メキシコシティをテノチティトラン Tenochtitlanの名で建設したのでした。この名前は、ナワトル語で「石のように硬いサボテン」を意味するのだそうです。
1325年、テノチティトランが建設されました。最盛期には人口が30万人もあったといいます。ですから、同時代のパリやコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)と並ぶ世界有数の規模であったと考えられています。コンキスタドーレス(スペインのラテンアメリカ征服者たち)の中にはヴェネツィアやコンスタンティノポリスを訪れたことがある者もいましたが、口をそろえて、「今まで訪れた都市の中ではテノチティトランが最も素晴らしい」証言しているそうです。
テスココ湖と沿岸は当初は橋で結ばれていましたが、都市としての規模拡大のため、当時から埋め立てが行われ、現在ではほとんど埋め尽くされてしまっているのです。
国章の周囲には半円形に、力の象徴であるカシ(樫)の枝と勝利を表すゲッケイジュ(月桂樹)の枝を、国旗と同じ3色のリボンで結んだリースが描かれています。
テノチティトランはナワトル語で「石のように硬いサボテン」を意味するのだそうです。
今日のメキシコ地方に栄えたアステカ文明は、スペイン人の征服者エルナン・コルテス(Hernán Cortés, 1485~1547)が1519年11月8日に初めてテノチティトランを訪れたときから悲劇が始まりました。このときコルテスは神ケツァルコアトルの再来と信じられたため、ほとんど抵抗なくこの大都会を征服することが出来たというのです。しかし、後に気付いたアステカ側は数ヶ月にわたって抵抗しましたが、コルテスたちは1521年8月13日に完全に征服したのでした。
コルテスは異文化を理解しない残酷無比な人物という印象ですが、スペインでは今のペルーにあったインカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro、1470頃~1541)に勝るとも劣らぬ大英雄。1992年から2002年のユーロ導入までスペインで発行されていた最後の1000ペセタ紙幣の表面にはコルテスの、裏面にはピサロの肖像が描かれていました。
アステカ帝国を征服したコルテス
インカ帝国を征服したピサロ