沖縄日の丸①


具頭中学校で。

コザ小学校での国旗贈呈式。
写真はいずれも1952(昭和27)年4月。
沖縄の本土復帰の20年前のことであった。

約30年間、私が直接お世話になり、ご指導いただいた末次一郎先生は、この人なくして沖縄の祖国復帰はなかったといわれるほどの人です。それゆえに、実は、あさって(2月26日)、沖縄を訪問する野田総理は、浦添市国際交流センター内にあるわが師の胸像に献花されることになりました。

4日ほど前、ユーラシア21研究所に河合淳一内閣総理大臣首席秘書官がお見えになり、詳細を打ち合わせたところです。現地では同じく師と仰ぐ川満茂雄、安谷屋幸勇のお二人が接遇します。

私は野田総理には注文したいこともたくさんあり、どちらかといえば厳しい対応をしてきましたが、この献花については、門下生の一人として素直に心から感謝したいと思います。

戦後いち早く社会運動に取り組んだ青年団体・日本健青会の活動は、『健青運動15年史』にまとめられています。ご指導いただいた末次一郎先生を中心とする組織でした。

健青会は引揚の促進、シベリアから復員して来た人たちへの支援、「戦犯」遺家族への支援、沖縄や北方領土復帰・返還運動の推進などなどさまざまな活動を展開してきました。その中で、今日でも特筆されるエポックメーキングな活動が<沖縄へ「日の丸」を贈ろう>という運動だったのではないでしょうか。

以下、『健青運動15年史』を転載させていただきます。

沖縄諸島日本復帰期成会の船越義英氏を知ったのは、昭和27年の6月のことであった。沖縄の実情を知り手を結びたいと思う心からであったが、船越氏は一冊の本を取り出し、まずこれを読むことをすすめられた。

それは沖縄の小、中学生徒の作文集であった。船越氏がかつてあちらの教員をしていた関係から、内地各層への働きかけ用として氏が編集したものであった。

本部では塾生の大学生までが涙をボトボトこぼしながら廻し読みをした。その中から当時の会報“さきがけ”にのせた短い詩の一篇を紹介しよう。

戦後沖縄では米軍の命令で日の丸の国旗を掲げることを禁じられていた。わずかに紙にかいた日の丸を祝日に教室の中に貼り出すことで、先生達は幼ない子供達に、“祖国日本”を忘れさせまいと努力をしていた。

日の丸

新嘉喜さよ子
那覇市壷屋小学校6年生

青空のまん中に
かがやく日の丸のはた
われらの国の 日の丸のはた
青空のまん中に
ちからいっぱい はためいている
われらの はた
かがやく 空の中に
うつくしいすがたをして 立っているものは
日の丸のはただけ

そして教職員会やPTAの熱心な努力が実を結んで昭和28年1月1日から祝日に限り、学校には日の丸の掲揚が許されることになり、内地有志の人々(主として沖縄出身者)の手で国旗36本が贈られた。しかし、沖縄には全島で552校の小、中、高校があった。

われわれはこの話を船越氏からきき、直ちに日の丸を沖縄の学校へ送る運動を組むことにした。8月15日(われわれはこの日を終戦とはいわず敗戦記念日と呼んだ)を期し“国土回復運動の手はじめとして”全国組織を動員して募金運動を展開した。

運動は全国各地で反響を呼び婦人団体や青年団体の協力のもとでおこなわれたが、8月30日、研究視察のため内地に来られた当間幸雄先生(上山中学教諭)を本部に迎え、第一号旗を氏を通じて贈呈、9月3日の帰沖までには9旒の大国旗を托することができた。

この運動は9月末までつづけられ、総額101,521円96銭が本部に寄せられた。その金で合計51旒の大国旗が出来た。台風街道に当り潮風の強い沖縄へ送るため、生地も染も入念に調整されたものだった。

当間先生に託した10旒は別として、当時はこれを沖縄に送る方法とて開かれていなかった。会は日本赤十字社に依頼し、11月はじめ船越氏の集められた67旒とともにようやく日赤の手で現地に送ることができた。

この年は冷害のため稲作5500万石を割るという昭和9年以来の凶作の年であり、関西には台風が襲来、大被害を与える等悪条件の中での募金活動であった。しかも、有力者を動かし、1人から多額の金銭をうけたのでは意味がないとして、10円、20円の零細な金を出来るだけ多くの人から集める──これが運動の趣旨であり方法であった。

従って、決して総額は大きなものではなかったし、全ての学校に1旒を送ることはできなかった。しかし、この運動を通じ、沖縄の人達と血の通い合う連絡がとれ、本土の青年達には沖縄問題の本質を浸透させることができた。運動としては大成功であった。

涙で読んだ現地からの礼状

年があけて、29年の正月をすぎる頃になると、沖縄からぞくぞくと礼状が届きはじめた。われわれの予想も及ばぬほどの反響で、子供たちの「日の丸バンザイ」と叫んでいる喜びの言葉は、全くわれわれを感激させずにはおかなかった。その時の分を割当てられた小、中学校からも校長さんや職員の名で丁重な礼状を頂いた。

その配分などを世話していただいた教職員会の、屋良(朝笛=後の沖縄県知事。吹浦注)会長からは、
「まことに有難とうございました。今、当会の自動車で各地に輸送していますが、皆さんのこの大国旗が、各地の学校に翩翻とひるがえる姿は、沖縄がかかる環境にあるだけに、想像するだけで胸がおどるものがあります……」
と真情がこもっていたし、糸満中学の仲地校長先生は、
「大国旗、大国旗、まことに有難とうございます。日の丸の旗、日本の旗、われらの旗……われらの旗をわれらの手で掲げ、これを仰いで感激の涙を流し、喜びのほてりをしている生徒たちの顔を察して下さい。生徒、職員ともにこの国旗を仰ぎ天にもとどけ、皆さまにもとどけと拍手をつづけました──」
と、感激の溢るる便りを寄せて下さった。

大空に、はためく日の丸見上ぐれば
祖国の姿ぞ、目にしむるなり

同胞の、厚き情を身にひめて
われら帰らん、祖国のもとに

の歌は、北中城中学の宮里淑子先生からのものである。

宜郷座小の安富祖校長先生は、
「……異民族の支配の下にあって、幾多の困難辛苦や難苦欠乏とたたかいながら郷土の復興にいそしんでいますが、とりわけ子供たちの魂の育成なくてはと努力してきました。そこにこの大国旗です。この国旗にこもる皆さんの尊い魂を充分に理解させ、立派な日本人としての教育を推しすすめていきたいと、一段の覚悟をかためています……」
と書いておられるし、また、北中城中の宮城先生外一同として、
「……見事な大国旗の贈り物に血の躍動を覚えました。箱のふたを開けると同時に輝く眼と眼そして涙と涙。私たち職員一同心からの筆をとっています。もちろん、早速子供たちにこの感激を披露しましたが、今朝の朝礼はシーンとして感激でした。そして今日は、私たちも生徒も一日中足が地につかぬ感じです……」
どの一篇も、思わず涙をもって読まされた礼状であった。

沖縄問題に取り組む野田総理は、「復帰の原点に立ち返って真摯に取り組みたい。そのためには末次先生の胸像に真向かいたい」と、河合秘書官に話しているのだそうです。

続く私たちも沖縄の問題を日本全体の大事な問題として正面に据えて取り組みたいと思います。

沖縄日の丸②

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