終戦の半年前、1945(昭和20)年2月19日、米海兵隊による硫黄島(現・東京都小笠原村)への上陸作戦が開始され、約1か月に及ぶ激戦の末、3月17日、栗林忠道陸軍大将麾下の日本軍の組織的抵抗が壊滅し、同党はほぼ米軍の制圧するところとなった。
3月21日、大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表した。しかし、その後も散発的な遊撃戦が継続し、26日、栗林大将以下300余名が最後の総攻撃を敢行し、戦闘は終結した。
防備を担った日本軍将兵20,933名のうち96%にあたる20,129名が戦死または行方不明、他方、米軍の死傷者も多く、戦死6,821名、戦傷21,865名の計28,686名であった。米軍攻略部隊の損害が日本軍を上回った稀な戦闘であった。英語では死傷者を合わせたcasualtiesという言葉で、戦争の人的被害を数えるのが通常である。この険しい戦さについては戦後もさまざまな形で語り継がれ、また、軍艦の名前やアーリントン墓地の記念碑、いくつかの映画となるなどしている。そして、まだ、英霊の遺骨の多くが洞窟その他、ガスの流出の激しい中で収集されないままになっている。
私も先年、この島を訪れる機会があったが、海上自衛隊のほか、米軍も艦載機の離着陸訓練を時々行っているが、双方とも、この島の歴史をかみしめながら、荘厳な気分で勤務している様子がよく解った。
その栗林大将の孫が新藤義孝総務大臣。安倍内閣の閣僚の中で率先して靖国神社に何度も参拝しているについてはこうした個人的な理由もある。
実は、どうして突然、こんな話になったかというと、先日、大臣室にロシア人数名を案内したとき、大臣席の横に国旗、総務庁の旗と並んで、消防の旗が立てられているのを見たことを思い出したからだ。
総務大臣室の国旗、総務庁旗、消防の旗(右から)。
手前の「総務大臣」の表札のある机の上には栗林忠道大将の小さな遺影が置かれている。
先日、ロシア人専門家たちを案内したときの新藤義孝総務相
救急車でお世話になった消防庁の旗。
「消防庁」という文字が入る場合もある。
実は、被災地・石巻市吉浜地区での防犯灯(街灯)点火式に参加した翌朝、去る12月6日、仙台のホテルで突発的な尿閉を起こし、救急車でNTT病院に運ばれるという事態に陥り、消防にお世話になった。救急治療室で導尿していただいて回復し、すぐ帰京を許されたのだが、新幹線で移動中、再び激しい膀胱肥大を起こし、上野駅で下車、またまた救急車で今度は虎ノ門病院に運ばれて、しっかりと治療を受けた。その段階ではすでに9日に国立医療センターに入院し、胆嚢結石の摘出手術を受けることが決まっていたので、安心と心配が混在する状況だったが、予定通り、10日に手術、14日に退院できた。
言いたかったのは、その2度の救急車の中で、何度も一緒に海外に行ったり、国内での国際会議に参加した畏友・新藤大臣の部屋の消防の旗を思いだしたということ。
いままでそんなに何度も救急車の世話になったわけではないが、これだけ信頼できる社会システムが整備されている日本の都市で暮らす幸せを痛感した。
あらためて消防の旗を紹介して、謝意を表したい。
なお、入院中も小欄が毎日更新されていたのは、ひとえに、株式会社ライトの伊藤輝氏のお力。本当に「ありがとう!」。