2度の訪米で福沢諭吉が出会った「星条旗」

幕末期に何人もの蘭学者たちが世界の国旗について著作をのこしていることはいつぞや小欄で紹介したが、福沢諭吉(1835~1901)もまたその一人。『条約十一国記』という書を「慶應二年 仲冬」、すなわち、明治維新の前、1867年11月に上梓している。

同書で福沢は、米、蘭、英、魯(ロシア)、仏、葡(ポルトガル)、孛(プロイセン)、瑞(スイス)、白(ベルギー)、伊、丁(デンマーク)の、当時、わが国と国交を持つ欧米11カ国について、国旗と国情とを小冊子にして紹介している。

ところで、当方、1万円札にはこちらは大いに親しみたいのだが、向こうが長居をしてくれない。わが偏見かとは思うが、なぜ慶應の福沢諭吉が大事にされ、わが早稲田の大隈重信は千円札にもならないのか、何とも解せない。

そんなことで、福沢のものは多少読んだ程度でしかなく、これまであまり研究の対象としたこともない。

ところが、なんと、その福沢が『条約十一国記』と題して国旗とその国の状況を紹介する本を書いているのに先般、出会い、これからは「この縁」にすがって「肖像をカラー印刷している長方形」の確保に努めなくてはと思い直した次第である。

ところで、この『条約十一国記』という書、表紙の「星条旗」、星の数が20個、紅白の縞が11本。福沢先生、お目が悪かったのか、杜撰だったのか、いえいえそんなことはありますまい。絵を書いた人がずぼらだったんであろう、きっと。

そんなことを考えているところに、千葉県の千葉さんという方から「『条約十一国記』の表紙は福沢諭吉が渡米した時の星の数と違っているのはなぜか」という問い合わせが来た。

なるほど、なるほどと感心ばかりしている場合ではない。私は生来、真面目な性格(のつもり)だから、ここはきちんとお答えしたい。

20星の「星条旗」はインディアナ、ルイジアナ、ミシシッピー、オハイオ、テネシーの5つが州に昇格して最初の独立記念日である1818年7月4日にできた「星条旗」であり、イリノイがすぐ後に州に昇格しましたので、この20星の「星条旗」はわずか1年で21星になった。ただし、このときはまだ福沢は生まれてもいない。


20星の「星条旗」

福沢が最初に訪米したのは木村摂津守の随員として咸臨丸に乗っての1860年2月10日のこと。この時は、太平洋に面したオレゴンが州になって、かの地では33星の「星条旗」に歓迎された。


咸臨丸難航の図(鈴藤勇次郎画)

米国の少女テオドーラ・アリスと撮った福澤諭吉。
万延元年(1860年)、サンフランシスコにて。
(慶應義塾福澤研究センター所蔵)

このあと福沢は文久2年1月1日(1862年1月30日)、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節の一員として英艦・オーディン号で欧州へと向かったがこの時はアメリカを経由しなかった。

同行者にはほかに薩摩藩の松木弘安(寺島宗則、1832~93)、津山藩の箕作秋坪(しゅうへい、1826~86)らがいた。寺島は日本の電気通信の父と呼ばれる功績があり、また、第4代外務卿としても活躍した。箕作が東京に開いた三叉学舎は当時、福沢の慶應義塾と並び 称される洋学塾の双璧であり、東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦などを輩出している。


33星の「星条旗」

次に福沢が渡米したのは1867年。幕府の軍艦「甲鉄」(宮古海戦で幕府艦隊の中心になった船)受取委員・小野友五郎(1817~98、咸臨丸渡米の際の航海長)の随員としてコロラド号という郵便船で1月に出発した。この時はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.Cなど東部まで訪れました。有力な親藩からの借財約5,000両で辞書や物理書・地図帳などを買い込み、帰国後、『西洋旅案内』を書き上げた。但し、福沢は現地で小野と揉めたため帰国後はしばらく謹慎を命じられたそうだ。

ネブラスカ州ができて1867年7月4日に37星の「星条旗」になり、これが1877年7月3日まで10年の長きにわたり続いた時代である。


37星の「星条旗」

福澤諭吉著『絛約十一國記』
(下の燕尾形旗はデンマークの商船用国旗)

福沢諭吉。文久2年(1862年)、パリの国立自然史博物館にて撮影

アメリカの「星条旗」がどんどん星の数を増やしていた時期、わが国もまたこうした逸材により、急速な近代化と発展を推し進めていたのであった。

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