戦後の「日の丸」掲揚禁止と代用の旗について①

第2次世界大戦に敗れた日本は、ダグラス・マッカーサー元帥を頂点とする連合国軍総司令部(GHQ)の支配下にはいった。


この日本商船管理局の旗が占領下のわが国の船舶には「日の丸」に変わって掲げられた。
フィリピンの国旗としばしば間違われたに違いない。

国際信号旗のE旗。Echo旗とも呼び、「本線は右に針路変更中」を意味する。

フィリピンの国旗

GHQは日章旗の掲揚を原則的に禁止した。より詳しく言うと、GHQは直接的な全面禁止令ははせずに、各地に駐留する部隊からの命令という形で「日本人各戸に掲げられた日の丸を降ろすように」との趣旨の通達をしている。特別に許可を得た場合はその限りではなかった。

國學院大学の安津素彦教授は『国旗の歴史』(1978)で、GHQは、<①日本国旗の掲揚について、総司令部令により禁止するという強い印象を与えないように配慮する、②連合軍将兵の敵愾心(敵対心)と感情を嗜癖市内方法による日の丸の掲揚は許可する、といった方針をとっていたようである>と述べておられる。

ちなみに、鹿児島県庁では敗戦以降も、毎日「日の丸」が掲揚されていたと同教授は既述しておられるが、過年、同県庁に問い合わせたが、写真も資料もなく事実関係は不明であるとの電話による回答を得たのみだった。さらなる調査が望まれる。

それでも、長野県小諸の町役場では46年の元旦に「日の丸」を掲げて新年を寿いだところ、「あの指令に違反して肉団子(ミートボール=「日の丸」の蔑称)を高々とかかげている」と米兵に咎められるということがあった(まーく・ゲイン『ニッポン日記』)。公的機関ではまずかった場合もあるということか。それとも指令がゆきとどいていなかったからかもしれない。

一般には、当時も12回の祝祭日(旗日)における掲揚は許可されていた。そして1949年の元旦から、マッカーサーは日本の国旗の使用を自由とするとの声明を発表、これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。

この通達と相前後するので正確ではないが、秋田の我が家では私が小学生の低学年のころから、祝日に国旗を掲揚することは私の役目であったが、どこからも何も言われなかった。

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