戦後、最初に国旗の法制化が検討されましたのは、一九六二年、東京オリンピックを前にした昭和三十七年のことでございます。当時の総理府に設けられました公式制度調査会が国旗・国歌、元号、国名の呼称など公式制度を研究調査し、東京オリンピックを前に世論の関心も高まりましたが、国会への法案提出までには至りませんでした。しかし、このときの公式制度調査会の調査が、国会図書館によるその前後の調査研究と相まって、今回の法案作成に当たっても大いに活用されているようにお見受けいたしております。
三回目は、一九七三年、昭和四十八年、時の田中角栄首相が突如として国旗法制化を政治マター化させたときでございます。しかし、このときは、今回と違いいかにも唐突で、またしかもその本音が日の丸を強制的に掲げさせるというようなところもあり、世論の賛同を得るには至らず、立ち消えとなりました。
四度目もまた突然の動きでした。七党一会派による細川護熙首班の連立政権の時代、今回私を推薦してくださいました自民党の一部の方が法制化を図ろうと発言したことがございました。ただ、このときは、いささか動機不純といいましょうか、国旗法によって連立政権内にあっていまだ日の丸を認めていない日本社会党を政権から分離させて、その政権を瓦解させようとしたとしか思えないようなものでございまして、日の丸を政争の具にしたと言うほかなく、私は大変残念なことだと思いましたし、当時も私は、そうした形での法制化は国旗や国歌にはふさわしくない、そういうものとして反対いたしました。
それらに比べますと、今回の国旗・国歌法案は、かなり周到に準備された、妥当な提案であると言えましょう。
(つづく)