1930年代にウクライナで起こった大量飢餓死を「ホロドモール(ウクライナ語で飢餓による苦死、英語のFamine Genocide)」と呼ぶ。本来、世界3代穀倉地帯と呼ばれる豊かな土壌のウクライアンで起こったこの悲劇は、当時のソ連の独裁者ヨシフ・スターリンによる作為と無作為の政治的理由に起因する餓死である。
労働者の象徴・鎚と農民の象徴・鎌が交差し、世界に共産主義の「理想」が広がることを念じた星のソ連国旗である。今でも日本共産党をはじめ、中国、北朝鮮などいくつかの国でこの標章は国章や党章に取り入れられている。
この「理想」は今日まで、共産主義の下では地球上のどこでも実現していないのみならず、そのために何千万(あるいはそれ以上)の人命が失われた。
ウクライナで強制的にパンを挑発して持ち去った。
ウクライナは今も当時もそうであるが、ロシアとヨーロッパの緩衝国的な地理的位置にある。しかも、当時、ソ連を構成する12の構成国(バルト3国は完全な独立国だった)の中ではロシアに次ぎ、2番目に人口の多い国であった。したがって、スターリンはそこに強固な共産主義体制を築いてソ連全体の防波堤としようとした。時代はドイツでヒトラーが政権を把握し、急激に新しい体制づくりを始めた時期だった。
そこでスターリンはウクライナで急速な農業集団化を図り、監視要員が配置され、それが次第に強制的なものになっていった。また、ウクライナの民族主義者や知識人などを共産主義革命やソ連の敵と見なして容赦なく処罰した。農民には集団化の過程として強制移住を課し、農地を奪い、また食料の収奪や家畜との引き離しを行った。さらに、ウクライナ産の小麦の輸出がソ連の外貨獲得で大きな位置を占めていたことから、生産量が減って不作となってもこれを強制的に取り上げ、他のソ連諸国の需要を満たし、外国に輸出して外貨を入手していた。そのことがウクライな国民の食糧難を顧みない形で実施された。
当時も国際機関や報道機関はソ連政府にウクライナの飢餓改善を呼びかけたが、モスクワは飢えた民の存在さえ認めず、「穀倉地帯での飢餓」はさらに進んだ。
この飢餓が公然と語られ始めたのは何と事件から60年を経てのことだ。