穀倉地帯ウクライナで起きた大飢饉③

第2次世界大戦でドイツ軍はウクライナに進攻し、ソ連軍との間に激戦を展開し、これを抑えた。ウクライナの中にはドイツ軍を解放者として歓迎する向きも多かったが、ドイツもそんな甘いものではなかった。そかも、戦後、ドイツ軍を歓迎したことがそれがまた裏目に出た。


ウクライナの国旗

スターリンはウクライナに対して引き続き厳しい対応をし、ために、そこから逃れ出る人も多かった。極東や新しく「取得した」サハリンや北方領土にいち早く移住した人たちの中にウクライナ人はとても多かった。その子孫は今日の北方領土にも残っている。

ソ連解体から2年程を経た1993年10月にエストニアとオーストラリアの議会が相次いで60年前にウクライナで起こった大飢饉と数百万とも1千万以上とも言われる餓死者を出した事件をジェノサイドであると議決したのをはじめ、特に、2000年代になって、このテーマの研究が大いに進められ、カナダ、ハンガリー、リトアニア、グルジア、ポーランド、ペルー、パラグアイ、エクアドル、コロンビア、メキシコ、ラトビア、バチカンの各国で国会や最高決定機関がジェノサイドとして認定した。これらの国々にはウクライナから逃れた人々や戦後、これらに移り住んだ人々が多い国々だ。

アメリカでは1988年に政府委員会がジェノサイドとして認定し、2003年になってまず上院が、2006年に下院が、さらに2008年には再び上院が厳しく認定した。

このほか、アルゼンチン、スペイン、チリ、チェコ、スロバキアの諸国で議会が「人道に対する罪」として断罪した。ロシアは2008年4月2日、国家院(下院)が「ジェノサイドではないことを強調しつつも、「人道に対する罪」として認知した。欧州議会やユネスコも同様の決議をしたが、「人道に対する罪」として認知した。国連ではロシア側の反発や他国内の諸問題に影響を与えかねないとの考慮から「ジェノサイド」としての承認は却下されたが同様の総会決議が通った。


行き倒れた餓死者

路上の餓死者や困窮者を葬ることも顧みることもなく通りすぎる人たち

2009年3月2日、ウクライナ領であるクリミアのセヴァストポリに、ホロドモール博物館が開館され、ホロドモールに関連する多数の写真が一般公開された。しかし、その後、展示された写真の中に、世界恐慌時の米国内の写真や1920年代のヴォルガ地方飢饉の写真が混入されていることが判り、信頼を損ねた。今回のクリミア紛争で、この博物館自体が閉鎖されるのではないかと案じられる。

2014年2月、親露派のヤヌコビッチ大統領が国民の不信を買いロシアに逃亡したが、同大統領は、「1930年代の大飢饉をウクライナ人に対するジェノサイドと見なすことはできない。この大飢饉はソ連に含まれていた諸民族共通の悲劇であった」と述べ、ホロドモールへのそれまでの政権の路線を転換した。

ソ連時代、ウクライナ東部やクリミアには多くのロシア人が移住した。東部は武器・弾薬を製造する工場が建ち、保養地クリミア(ヤルタが特に有名)は観光客や療養者を迎えるとともに、セヴァストポリは軍事拠点として重要な地位を占めてきている。

現下のウクライナ問題の行方については近々、詳述したい。

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