8月12日午後、最近のウクライナ情勢を巡って、イーホル・ハルチェン駐日ウクライナ特命全権大使と約2時間半、意見交換をしてきた。麻布の同国大使館3階の大使応接室に案内された時、私ども4人(ほかには袴田茂樹新潟県立大学教授、斎藤元秀前杏林大学教授、伊奈久喜日本経済新聞特別編集委員)は「おうっ!」と声を発した。
横綱・大鵬の写真の前で熱弁を奮うハルチェンコ駐日ウクライナ大使
それは正面にウクライナの国旗とともに、縦1メートルもある48代横綱・大鵬の化粧まわしを付けた写真が掲げられていたからだ。
大鵬は1940年、ロシア革命後を嫌ったウクライナ人のコサック騎兵隊将校出身のマルキャン・ボリシコの三男として、当時、日本領だった樺太の町(現・ロシアサハリン州ポロナイスク)に生まれた。ボリシコは樺太へ亡命した難民である。
終戦時、ソ連軍の侵攻を受けた樺太からは多くの住民が独自で脱出、また終戦直後からは、引揚船で北海道の小樽港に運ばれるのが通常だった。
母親とともに納谷幸喜少年は最後の引き揚げ船・小笠原丸に乗った。しかし、船酔いと疲労による母親の体調不良により、稚内で途中下船。これが運命を逆転させる結果となった。稚内を発った小笠原丸は、留萌沖で国籍不明の潜水艦(ソ連の潜水艦?)からの魚雷攻撃で僚船とともに沈没したのだった。
大鵬の父親はこのようにウクライナ人であるが、日本の領土で生まれ、母親が日本人ということで、最初から外国人力士とはみなされなかった。結婚相手はわが故郷・秋田市の老舗菓子舗の御嬢さん。幼稚園から中学校までわが後輩にあたる。大鵬のその後の活躍は述べるまでもない。
私は大使とは初対面であったが大鵬の写真とウクライナの国旗ですっかり打ち解け、クリミアの現実、マレーシア航空機撃墜に関するインテリジェンス機関からの特別情報、東ウクライナの内戦状況、ロシア人義勇兵の関わり、ウクライナ西部の大天然ガス保存基地、プーチン露大統領訪日の見通しのことなどたっぷり話すことが出来たが、具体的な中身は当然オフレコと心得ているので、お伝えできないのはお許しいただきたい。