1975年4月30日、南ベトナムの「黄地に赤の3本線」の国旗に代わって、サイゴン(現ホーチミン)の大統領官邸の上に掲げられたのが、赤と青の2色に金色の星という、いわゆる越共(ベトコン=ベトナム民族解放戦線)の旗。
ベトコン(ベトナム民族解放戦線)の旗
但し、掲げたのも軍事的に制圧したのも、そのほとんどがベトナム民主共和国(当時。現ベトナム社会主義共和国=北ベトナム)の正規軍。私が接した共産側の捕虜は全員北ベトナムの正規軍招聘で軍籍番号がありました。
要するに、ベトナム戦争はアメリカ、朝鮮半島に次ぐ第3の「南北戦争」であり、南は北に負けたのであって、ベトコン政権は「北の傀儡」で、南ベトナム政権も1973年1月の「パリ和平協定」(キッシンジャー、レ・ドク・トはこれでノーベル平和賞を受賞)で米軍が撤退すると2年余りしか持たなかったのです。
南ベトナム軍の質の低さも酷いもので、私は国際赤十字の駐在代表として「パリ和平協定」直後から現地にいましたが、検問所でトラック10台分の救援物資を没収されそうになり、ハイドンの「さよなら交響曲」よろしく、話し合い中に次々と離脱させ、最後にランドクルーザーに飛び乗って、フルスピードでジグザグに進むと、後ろから何発も撃たれ、後部ガラスに4発の穴が開くということもありました。私も当時は怖いもの知らずの若者だった。
あえぎあえぎ 地雷あるという 山路来て
カフェオレ交わす 異国の友と
これは、中部高原地方を周った時の作。後に肝炎を患い帰国したとき「朝日歌壇」に投稿し、宮 柊二選者によって入選作に選ばれた。