国旗のある風景 – 祖国(内地)を目前に斃れた引揚者も

11月5日、毎日新聞学芸部の井上卓也編集委員の取材を受けました。満州から北朝鮮に避難したが、そこで苦難の1年余りを過ごした人たちを徹底取材し、4月20日の紙面で1ページ余りを使って報道した記者です。


内地を目前に行われた船上での水葬。半旗が寂しい

終戦間際に満州に侵攻してきたソ連軍の質の悪さは、例えば、ウイキペディアで次のように書いているのを参考にしていただければと思います。

1945年8月12日、日本人開拓団がソ連軍と満州国反乱兵によって襲撃された麻山事件、8月13日には武装した暴徒に日本人避難民が襲撃される小山克事件が、翌8月14日には葛根廟事件が、東満省では牡丹江事件が発生した。8月27日にはソ連兵によって連日集団強姦されていた日満パルプ製造敦化工場の女性社員が集団自決する敦化事件が発生した。

満州や朝鮮半島の北緯38度線以北などソ連軍占領下の地域では引き揚げが遅れ、満州からの引揚は、ソ連から中華民国の占領下になってから行われた。満州においては混乱の中帰国の途に着いた開拓者らの旅路は険しく困難を極め、食糧事情や衛生面から帰国に到らなかった者や祖国の土を踏むことなく力尽きた者も多数いる。

朝鮮半島の北緯38度線以北にいた日本人は、引揚事業の費用負担をソ連のどの省が負うのか責任の先送りの間に栄養不良や病気で約3万人以上が死去した。そうした環境から自力脱出し北緯38度線を越えアメリカ軍による引揚で日本に帰国した者が20万人で、正式にソ連が1946年12月に始まる朝鮮半島の北緯38度線以北から引揚させた日本人は約8000人で[3]1947年になってようやく完了した。

ソ連兵は規律が緩く、占領地で強姦・殺傷・略奪行為を繰り返したため、戦後の日本において対ソ感情を悪化させる一因となった。朝鮮人も朝鮮半島でソ連兵と同様の行為をおこなったと言われており、強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の記録では、相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人となっている。夫の前でソ連兵にレイプされ、青酸カリで自殺した婦人もいた[6]。興南の日本人収容所ではソ連兵が「マダム、ダワイ!(女を出せ)」とわめき、女性を発見すると暴行した。日本人女性は暴行されないように短髪にしたり男装や顔に墨を塗った。

また、中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍は在留日本人に強制徴兵や強制労働を課したため、それに対する蜂起とその後の虐殺などで1946年2月3日の通化事件のような事件が起きた。引揚列車に乗車後、乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された婦女子もいた

従来、満州からはシベリアに抑留された60万人を超える将兵の長期抑留のその約1割もが亡くなったことはさまざまなメディアや書籍でよく知られていますが、北朝鮮に逃れた人たちは老人、女性、子供が大半。悲劇の深刻さはシベリア抑留に勝っても劣らない悲惨なものでした。

よく知られているのは、満州国で貴省の仕事に当たっていたためしばし残留した新田次郎を置いて北朝鮮に逃れた藤原ていの体験小説『流れる星は生きている』。数学者でエッセイストの藤原正彦は僅か4歳で兄とともにこの悲惨な経験をして生き延びた人です。

敗戦時は、満州、中国、朝鮮半島、樺太、北方領土などから多くの人々が文字通り命がけで内地に帰還しました。亡くなった人も数多いのです。

来年は敗戦から70年、戦争の総括をすべきであり、次世代へ語り継ぐ年だと思います。

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