パレスチナ
2011年10月、パレスチナはユネスコ(国連教育科学文化機構)への加盟が認められ、国連機関への正式参加の第一歩を踏み出し、パリのユネスコ本部前にはこの国旗が掲揚されています。
実は、日本も同じような経過をたどったのです。ユネスコは1946年11月4日に設立されましたが、敗戦国日本は国連本体のみならず、ユネスコへの加盟も1951年のサンフランシスコ講和条約まで認められませんでした。それでも、ここを国際的なつながりの窓口にしようという関係者の慧眼と努力で、早くも1947年には民間の組織としてユネスコ協会が仙台市で発足し、やがて全国に広がってゆきました。
結局、ソ連の拒否権などにあい、1956年10月の「日ソ共同宣言」で両国の国交が回復するその直後まで、日本の国連加盟は認められませんでした。
ところで、私が初めて国旗の本の出版に関わったのは、東京五輪を前にした1962年から翌年にかけて、(社)日本ユネスコ協会連盟(日ユ協連)の機関紙「ユネスコ新聞」に世界の国旗について連載し、それをまとめたものが平凡社から『世界の国旗』として出版されたのを嚆矢とします。「国旗理解は国際理解の第一歩」というコンセプトから日ユ協連は世界の国旗の普及活動に大いに力を入れました。
1964年の東京オリンピック終了後は、『国旗総覧』という日英両国語による大冊の書物を刊行しました。日ユ協連内に「国旗刊行物出版委員会」なるものが設立され、公式制度に詳しい外務省の藤沢優さんという人を委員長に、当時最有力国旗メーカーだった日本信号旗の尾花良二さん、東京五輪組織委式典課におられた森西栄一さんなどでし、文部省や日本商工会議所から高額の補助金をいただいて森重出版というところから出したものです。実質的には尾花さんと私が中心でした。
この本はあえてルーズリーフ式として、読者には国旗の変更があれば連絡し、差し替えたり追加したりできるようにしたのですが、森西さん、藤沢さんが亡くなるなど、諸般の事情でそれはかないませんでした。
尾花さんはこのあと国連協会に転じました。令夫人・珠樹さんは「ユネスコ新聞」の編集長でした。良二さんは80代後半ですが、お二人とも鎌倉でご健在です。先年、良二さんはご自分が所蔵していた国旗に関する貴重な全資料を私に譲ってくださいました。今でも感謝しています。
それらの参考にしつつ、約40年後の2004年になって、日ユ協連を通じて再びお話があり、同じ『国旗総覧』の題で、私の著書ということで古今書院から体裁を全面的に変えましたが、再刊されました。諸先輩の顔を思い出しながら、ほっとしたものでした。
ところで、このパレスチナの国旗、「アラブの4色」からできていますが、ヨルダンや西サハラの国旗とよく似ています。以前のイラクの国旗も左側の赤い三角形が台形になり、星が2つ縦に並んだものでした。
はたして、このパレスチナの国旗がニューヨークの国連本部前に並ぶのはいつのことでしょうか。中東和平の前途は、依然見通しが立たないまま、2012年になりました。