1962年までの国旗。上下のつきと太陽の顔にはかなりの描き方があり、また、黒でというのもあった。
ネパールはカトマンドゥの空港に着いただけで、他の国にはない気持ちの安らぎと気分のよさを感じさせられる国です。手前の山、遠くの高い山、そして、「えっ!」と驚くような見上げる山がさらに向こうにあるのです。8000m級の山並みと言うのはここでしか見ることができないのかもしれませんが、まさに壮観です。そして、カトマンドゥ発カトマンドゥ行きという、遊覧飛行便があるのです。エベレストの上空まで飛んで引き返します。
昔から豆腐や納豆もあり、日本人とよく似た顔立ちも多いこの国はここ10年余り、全く不安定な中にあり、このユニークなデザインの国旗もどうなるかわかりません。
ざっとこの国の基本に関わる5年ほどの流れを見てみましょう。
2001年6月1日、ネパールの首都カトマンドゥのナラヤンヒティ王宮で、国王夫妻の主催する定例の王族晩餐会(事件後に発表)が開催され、そこで、ビレンドラ国王の末っ子にあたるディペンドラ王太子が国王ら多数の王族を殺害したとされる悲劇が発生しました。事件直後、王太子は危篤状態のまま国王に即位しましたが3日後、死亡しました。ネパールの根幹に関わる混乱の始まりです。その後、他の王族(ギャネンドラ=ビレンドラ国王の弟。事件当日は晩餐会を欠席)が国王になりましたが、混乱は収まらず、毛沢東派と称する共産党系過激派が主体となってはいるものの、混乱が続いています。
2006年5月18日、議会が国歌の変更と政教分離(ヒンドゥー教の国教廃止)を満場一致で決定し、2007年12月27日、暫定議会はネパールの政体が連邦民主共和制になる旨の暫定憲法改正案を承認しました。
翌年4月10日、制憲議会選挙の投票が実施され、毛沢東派が第1党となったが過半数は獲得できず、5月28日、ネパール制憲議会が招集され、新たな政体を連邦民主共和制と宣言して正式に240年間続いた王制に終止符を打ち、これにともないギャネンドラ国王が退位しました。
その後も混迷は続き、2010年夏には、首班指名選挙で誰一人過半数を獲得出来ず、同年9月まで8回の選挙が繰り返し行われる始末でした。
そんな中で、同年12月11日、 元国王・ギャネンドラの長男(元皇太子)パラスが泥酔した上、スジャータ・コイララ副首相の娘メラニー・コイララ・ヨストの婿と激論の末に発砲した容疑で逮捕されました。どこでどう話がついたのかはなぞですが、三日後に双方から発砲はなかったという発表があり、釈放されるという結末となる事件が起こりまし。混乱の続く中で、王政復活への期待が出始めた矢先の出来事であり、これで王家支持派はまた大きく力をそがれました。
そして、その後も安定した政権も議会も出来ないまま、混沌とした政治状況が続いており、国旗をどうしようというところまではなかなか立ち至らないようです。したがってこの特徴あるネパールの国旗は変更には至っておりません。これからもこの国の状況をフォロー見ていきましょう。
ネパールの国旗は1962年の憲法で幾何学的作図法を文章で記述していると言う規定の仕方です。したがって、憲法が停止状態にあったり、暫定憲法ができても、これまでの国旗をそのまま援用して状態が続いています。ただし、王家と宰相家を象徴しているこれまでのデザインの国旗がそう長く続くとは、思えません。
さきに殺害されたビレンドラ国王は11歳のころ、帝国ホテルに泊まり、本郷の東京大学医学部付属病院に通院して耳疾の治療を受けておられました。私たちは日本赤十字社のボランティア・グループ(日赤語学奉仕団)としてその滞在に協力したものでした。長じて、この王様は、自ら小型機を操縦したり、空軍将校に操縦させて国内の視察をしておられました。時には、パラシュートで原っぱや学校のグラウンドなどに降下し、突然、現場指導をするというようなこともあった方です。結局は、身内(弟)の反乱で命を落とし、混乱の中で王朝は滅びましたが、このユニークな国旗も消えてしまうのかと思うと、不謹慎ながら、王朝よりもったいないように思うほどです。
ネパールの安定と発展を心から祈念します。
なお、『新潮45』(2001年12月号)の「ネパール国王暗殺の真相と『毛沢東の息子たち』」をご覧いただくと、この奇奇怪怪なビレンドラ国王惨殺事件の詳細を知ることが出来ます。
ところで、国旗は国際情勢、国内政治情勢に敏感に反応して変更になるのです。国旗の勉強には、日々の情報の収集と地理や世界の歴史の勉強が欠かせないといまさらながら付記するほかありません。