依然続くロシアとの摩擦
バルト3国を併呑したソ連の国旗
その後の1994年8月末にロシア軍はエストニアから完全撤退し、エストニアは舵を大きく西側に切り、2004年3月、NATO(北大西洋条約機構)に、5月にはEU(欧州連合)に加盟しました。ロシアとはロシア人が多く居住する東部国境が未調整ですが、エストニアが西側に大きく軸足を変えた時点で、この調整は国家間レベルではあいまいなままに停止しています。
この年5月、ロシアが開催した対独戦争60周年記念式典にはエストニアのリュイテリ大統領とリトアニアのアダムクス大統領は出席を拒否しました。日本からは小泉首相が出席し、私はもちろんのこと、専門家や外務省OB、各紙の社説の多くがこれを批判しました。領土問題が未解決で、平和条約の締結にさえ至っていない日本が祝うべき話ではないからです。
他方、アメリカのブッシュ大統領はモスクワでの式典に参列する直前の5月7日、ラトビアの首都リガで、対独戦勝利後にソ連が東欧を支配したことは歴史上の不正行為だったとし、ロシアが見習うべき民主主義の模範としてバルト3国の名を挙げました。これに対して、ロシアのプーチン大統領は、8日に放映された米CBS放送インタビュー番組で、質問に答え、ソ連による支配について謝罪することを拒否しました。さらに、ロシアの民主主義に対するアメリカの批判を退け、「民主主義は、他の場所に輸出することはできない」と語りました。
このように、ロシアとバルト3国やアメリカとの関係は常に微妙で時には摩擦を含みがちです。2007年4月27日、首都タリンで、ロシア系の若者たちの政治グループ「青銅の夜」による暴動が起こり、警官隊と衝突しました。これは、ソ連時代に建造された「タリン兵士の青銅像」が撤去されたことに対して反対する示威行動ですが、エストニア側にしてみれば、ソ連時代の悪夢の象徴でもあるこの記念碑は目障りでたまらないものでした。この衝突は死者1、逮捕者300という事態になりました。また、この時は、同時にロシアから激しいサイバー攻撃が行われ、エストニアの通信機能が大混乱するという事件も起こり、両国関係は険悪になりました。
旧東欧圏の多くや東ベルリンにも依然として同様の記念碑や巨大な記念物などが残され、ロシアを刺激しないよう、対露関係を損なわないよう配慮で、ほとんど無視して政治問題化しない方針の国が多いのですが、何かの機会に騒ぎを起こそうという「親ソ」グループにしてみれば、これらは1つの神聖な遺物ということになります。