「幕末の国旗研究」の研究については、これまでも拙著『日の丸の履歴書』(文藝春秋社)や『日の丸を科学する』(自由国民社)などで触れましたが、幕末の国旗研究への興味はどんどん「深み」にはまり、2012年2月7日には、岡山県津山市の洋学資料館に行ってまいりました。津山は出雲と岡山や姫路を結ぶ人口10万余の市です。かつては美作(みまさか)地方の中心的城下町であり、今でも街のあちらこちらで、往時の面影を偲ぶことができます。残念なことに、津山城は明治初期に廃城令によって解体されましたが、城跡は今でも当時の城の規模と構造を彷彿とさせてくれます。
宇田川榕菴
箕作阮甫
津山が注目されるのは、何といっても幕末から明治にかけて多くの逸材を輩出したことです。今の岡山県初の洋学者である玄随(1755~97)と玄真(1769~1834)、榕菴(1798~1846)の3代(ずれも養子)が有名な宇田川家はじめ、榕菴よりひとつ若く玄真に師事したこともある箕作阮甫(1799~1863)、慶應義塾並ぶ洋学塾を創設し、東郷平八郎や原敬などを教えた秋坪(しゅうへい、1825~86)、法学者、教育者、啓蒙思想家であり、司法大書記官、太政官大書記官、元老院議官、司法次官を務めた官僚であり、貴族院勅選議員、行政裁判所長官等を歴任し、民法・商法編纂委員、法律取調委員、法典調査会主査委員、さらには和仏法律学校(現・法政大学)初代校長でもあった麟祥(1846~97)、そして秋坪の次男であり、美濃部亮吉の祖父でもある菊池大麓。菊池は東京大学理学部教授となり、近代数学を初めて日本にもたらした人で同大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長、理化学研究所初代所長等を歴任した。箕作家の阮甫以降の家系には男女1,116人が名を連ね、ほかにも同じく東京帝国大学、早稲田大学の総長など学術分野を中心に優れた人物が続出したほか、経済界の大物などもいます。
また、津山からはほかにも啓蒙学者であり、外交官、元老院議員、裁判官なども務めた津田真道(1829~1903、明六社を結成した一人)をはじめ、絢爛たる群像が並び、その顕彰と研究、史料の維持管理などのため、市によって全国唯一の洋学資料館が営まれているのです。
2月7日、大阪で昼過ぎの講演を終えると、私はまるで吸い込まれるように新幹線に乗り込み、岡山に行き、さらに津山線に乗り換え、1時間半ほど揺られて終点のJR津山駅に着きました。すっかり暮れていました。それでも、駅前広場には箕作阮甫の像が凛として建っているのがわかりました。榕菴については『国章譜』(万国旗章譜)と『航海旗章譜又名百九十一番旗合』を書いていることをはじめ、これまでも触れたので詳述を避けますが、阮甫もまたこの津山出身の藩医であり、早くして江戸の幕府天文方蛮書和解御用(後の蛮書取調所)に召し出された人です。米国からのペリーやロシアからのプチャーチンとの応接をはじめ、外交事務に追われる日々を過ごしました。
そして阮甫もまた、世界の国旗の本を編集して遺しているのです。1846年に刊行された『外蕃旗譜』です。二人ともまだペリーが浦賀にやってくる(1853)前のことですから、幕府はもう、「黒船来航」を想定内のこととして諸準備にあったっていたことがよく分かります。
なお、津山が生んだ碩学・宇田川榕菴と箕作阮甫については多くの論文や研究書をさまざまな専門分野の方が書いておられますが、手頃なものとしては高橋輝和著の『シーボルトと宇田川榕菴 江戸蘭学交遊記』(平凡社新書、2002年)、『素晴らしき津山洋学の足跡』(2004年),そして『学問の家・宇田川家の人たち』をお勧めします。また、蘭学史料会編『箕作阮甫の研究』、日蘭学会編『洋学史事典』、緒方富雄編『江戸時代の洋学者たち』、津山洋楽資料館編『ペリーが来たぞ!』などを3考にしていますし、お勧めします。