幕末の国旗研究⑤ – ゴロウニンに国旗を訊く

1804年になって、ロシアから今度はニコライ・レザノフ(1764~1807)が双頭の鷲のロシア皇帝旗を立てて、長崎にやってきました。乗艦には白地に青の斜め十字や赤の斜め十字のロシア海軍旗を掲げ、堂々たる入港でした。


ニコライ・レザノフと皇帝旗

相前後して、室蘭、長崎、利尻島、浦賀、常陸大津浜などの港にはロシア船とともに英、米の船も相次いでやって来ました。中には、1808年8月、偽ってオランダ国旗を掲げ強引に長崎に入港して来た英国軍艦「フェートン号」の事件のように、卑劣な手法によるトラブルもありました。

こうした外国船の来航に対応するため、幕府は渡辺胤、近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵らを蝦夷地に向かわせたり、東北諸藩を蝦夷地警備に充てたりするとともに、通事に仏、英、露語を学ばせたり、異国船打払令を頒布するなどし、硬軟取り混ぜて対応を図るのでした。国旗研究もそうした外国事情研究の一環ではなかったかと思われます。驚くほど多くのさまざまな関連書籍が製作、刊行されているのです。外国船の区別をはっきりするために行なったことでしょう。

フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは自らの弟ルイをオランダの王に任命し、オランダの国旗を降ろさせました。その結果、世界中でオランダの国旗を掲げていたのはほとんど長崎の出島だけという状況になりました。

「フェートン号」には、ペリュー艦長以下350人が乗り組んでいました。8月15日、出島のオランダ人たちは当然のように歓迎のため近づくと、「フェートン号」はこのオランダ人を拉致して人質にし、同行した日本の役人には薪炭の提供を迫ったのです。

「このままでは“祖法”が破れる」と事の重大性に気付いた長崎奉行松平康英は必死に退去を迫りましたが、ペリューは逆に「市中への砲撃も辞さん」と脅しをかけるしまつで、康英はついに屈し、その晩、切腹して果てました。国際信義を裏切る英国のやり方には幕府もオランダも、その後長いあいだ警戒し、恨みを残しのです。

3年後の1811年、ロシア海軍のワシリー・M・ゴロウニン少佐(1776~1831)がエカテリーナ2世の命を受けて今日、北方領土と呼ばれている根室周辺の島々を訪れ、測量を行いました。7月11日、国後島沖で幕府の役人に捕らわれ、箱館や松前で幽囚生活を送ることになりました。

報復的に捕らえられた豪商・高田屋嘉兵衛(1769~1827)の努力もあって、ゴロウニンは2年3ヵ月の拘留の末、釈放され、その1815年、体験記を著しました。この体験記は各国語に訳され、日本では現著発行のわずか6年目の1821年に翻訳に取りかかり、2年後『遭厄日本紀事』の題で刊行されました。


ワシリー・ゴロヴニン

1994年、ロシアで発行されたゴロヴニンの記念切手

そこに見られる日本人の1つの特徴は「質問好き」と、いうことのようです。
中には、旗の使用目的、軍用旗と商船旗の違い、戦時と平時の掲揚の違い、船の各所に掲げる旗の意味についてなど、旗について幕吏や通事たちは、実に専門的な質問を浴びせているのには驚かされます。講談社学術文庫の『日本俘虜実記』(徳力真太郎訳)にはこんなやりとりも見られます。

日本側が翻訳を求めたロシア語の文書類のほか、(村上)貞助や(上原)熊次郎は種々の品物やヨーロッパの本の日本訳を数冊持って来て、本について我々の説明や意見を聞かせて欲しいと言った。いな、むしろ彼らの例の疑い深さから、翻訳の正否を確かめたいのであると私には思えた。彼らが持ってきて見せたいろいろの品物のうち、支那人が描いた広東の風景画があって、それにはヨーロッパ各国の居留地がそれぞれの国旗で表してあった。日本人たちは「なぜロシアの国旗がないのか」と訊ね、その理由を知ると、「どうしてロシアの商人のいない土地に行こうとしているのか」と訊いた。「ヨーロッパ人は国籍がどこであろうとそんな場合には相互に援助するものである」というと大変に驚き、ほとんど信用しなかった。

ここではベテラン通訳の熊次郎も新人ながらゴロウニンがその才能を買う貞助もまるで“なぜなぜ坊や”のようにいろいろと質問をあびせかける様子がよく描かれています。二人とも既に、国旗が世界情勢を知る上の大事な手がかりになるということをよく理解していたようです。そして次のように、旗の区別や国旗の意味にも興味を示すのでした。

そのほか彼らは、レザノフ使節が乗って長崎に来航したナジェジダ号の絵を見せて、たぶん、艦長クルゼンシュテルンが艦を飾るため、海軍用語でいう満艦飾に掲げた艦尾旗、艦首旗やヨーロッパ各国の旗はどんな意味があるか、と訊ねた。

このやりとりでも判るように、当時、幕府では既にかなり国際情勢を理解し、また、外国の旗などについて知っていたようなのです。しかし、これをもう少し調べる必要があるのではないか、と文献検索にあたったところ、私は先人の数々の労作にあちこちで出会い、驚嘆を重ねることになったのでした。

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