江戸時代の「日の丸」は幕府の米輸送船の旗


東錦将軍家船遊之図
絵師・勝月 明治22(1889)年の作。安津素彦國學院大学教授(故人)が所蔵されていましたが、ほかに滋賀県栗東民俗資料館や神戸大学住田文庫にもあります。

「江戸時代に「日の丸」はどんな使われ方をしたのですか?」
という質問を以前、和歌山のM氏からいただいていたまま、返答しないままでいました。遅くなって申し訳ありません。

鎖国になってからの「日の丸」はいわば官用船、すなわち公儀の船の証としてのみ用いられていました。「朱の丸」を掲げた船が幕府の船で、各藩の船や私船とはそれで区別しました。『徳川十五代史』によれば、4代将軍家綱の延宝元(1673)年、幕府への年貢米の輸送にあたっては、麻または木綿の布地に「白き四半に大成朱の丸を附け其下面に苗字名書付」けるようにとの幕府布令が出されています。

実際には、幟に「朱の丸」を描き、その下に「御城米」と墨書したもの(早稲田大学図書館が麻布製のものを所蔵)や、「朱の丸」を3~5個、縦に並べたものなどがありました。庶民はこれを「朱団子(しゅだんご、または、あかだんご)」と呼んでいました。要するに、幕府の領地(天領)からの年貢米を大坂や江戸に運び込む廻船(御城米船)専用の標識だったのです。

御城米船は新造後7年以内の廻船が使用され、年貢米と乗組員の食用米以外は積載せず、乗組員は身元引受人の居る素姓の正しい者とされていました。通航にあたっては優先的に扱われ、万一、難破してもその積荷を奪うようなことでもしたら、関係者全員が死罪になるほどの罪とされました。

そのあたりの事情は、吉村昭が『朱の丸御用船』で詳述しています。すなわち、1830(文政3)年9月、それをやってしまった志摩国波切村(現・三重県志摩市大王町)沖で起こった出来事と村人たちの悲劇を史実に準拠しながら描いた名作です。

このように「朱の丸」は年貢米輸送船の印とみられ、思わぬトラブルもありました。すなわち、1810(文化7)年、翌年対馬にやってくる朝鮮通信使を迎えるにあたり、幕府は全権団の掲げるべき旗の図柄につき、熟慮相談を重ねたのです。その結果、「白地に朱の丸」の旗がよかろうとなったのです。

これには実際に朝鮮からの使節を迎えに行く脇坂中務大輔や井上美濃守ら6人の者が、米の運搬船と同じ旗ではいかがなものか、「紺花色」の地に赤丸のものをと再考を上申(提案)したのです。そこで再度協議の結果、やはり「白地に朱の丸」が良い、ということになって、実際、その「日の丸」が日本を代表する旗として用いられたのでした。

その時の様子を元平戸藩主・松浦静山(1760~1841)が『甲子夜話』で、「官の御威光四海におよへることいふまてもなし。その一をあげていわんに御用船とて津津浦浦にあるもの四方旗に日の丸の印なり。…文化八年、大帆に日の丸の印をえがきたる旗を掲げたりといふ」と書き遺しています。これは、「日の丸」がわが国を代表する外交使節の旗として選定された最初の出来事ではないかと思われます。続けて静山は「長崎廻りの御用船も皆日の丸の旗を掲げたり」とも記しています。

静山がロシアの国旗について同じ『甲子夜話』で詳述しているのですが、これが現存している外国旗について日本人が記した現存する最古のものであることは別稿で書きました。

『廻船必用記』(神戸大学住田文庫所蔵)の「御城米取扱方」に「御城米元船に日之丸船印相立、何国何浜より江戸まで、平生風雨は無差別立詰に可仕候」とあるように幕府の年貢米を輸送する時は、船尾に必ず「日の丸」を立てました。例えば、『諸湊諸事変難取扱留』に「日之丸御城米積舩一艘、昨廿七日之夜五つ時頃深浦湊え入船仕候に付」とあります。深浦は津軽の日本海岸に面した湊。同書にはさらに、「私船水主・炊共拾三人乗、日之丸御城米酒田湊にて積入」とあり、また、『弘前津軽藩史料』には「大風雨之処、日之丸御船一艘鯵ヶ沢湊え入船仕候間」ともあります。

時代がややさかのぼりますが、安津素彦國學院大学教授(故人)が所蔵しておられた「東錦将軍家船遊之図」という錦絵についても触れておきましょう。寛政10(1798)年の御召船「安宅丸(天下丸)」の様子を描いたものです。舷側に数十本もの旗印が掲げられ、船首には葵の紋の旗印、船尾近くに大きな「日の丸」状の旗がありますが、他は全部、「朱団子」といわれる旗、すなわち縦長で1枚の旗に3つまたは5つの赤丸が付いているものです。全3枚から成る錦絵。左の絵の上の方に、「寛政十年 御召船天地丸 一、櫓七拾六挺立 一、上口長拾五間 一、肩三間五尺七寸二分 一、立足壱間三尺 伹むノ字ノ旗ハ向井将監ノ印ニテ公儀ヨリ御渡シモノナリ。第二鳳凰丸、第三八幡丸」と書かれている。「伹むノ字ノ旗」は「しょむのじのはた」と読むべきか? 真ん中の絵の左上の「む」と書いた幟を指すもの。

この錦絵は、表題の通り、将軍家が船からお花見をするという、舟遊びの様子を描いたものです。

絵師の名「東洲勝月」が左下にあります。本名は小島というようですが、生没年は不明です。浅草永住町に住み、明治20代の初めころからの絵が多く、憲法発布や博覧会の関係、この「観古東錦」シリーズのような風俗画、そして日清戦争の絵などがのこっています。この絵師には、同じく大判3枚続きの錦絵「国会議事堂之図」があります。これは1890(明治23)年の作品で、同年11月、天皇が国会議事堂前へ馬車でご到着、儀仗隊が出迎えている様子ですが、国会開設の半年以上も前の同年3月に想像で描いたものです。ですから、「東錦将軍家船遊之図」も想像によるのではないかということが言えるのかもしれませんが、あまりにリアルであり、私は当時から約100年前の寛政10(1798)年の船遊びの様子を誰かが描いたものが下絵になったのだと思います。

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