床屋と国旗① – 床屋のサインポールは世界共通

「国旗と床屋(理髪店)」といっても、一瞬「?」でしょうか。ただ、あの青白赤の三色でクルクル回る「サインポール」は国旗にゆかりのあるものの可能性が高いのです。所詮「床屋談義」と馬鹿にせずに、長年、私が気にして来た話に少々、お付き合いいただきたいのです。

それはそうと「床屋」を差別語だという人がいて、驚いたことがあります。「理容」「理髪」というほうがいいらしいのです。そうですかねぇ。確かに、ロッシーニのオペラも「セビリアの床屋」というよりは、「セビリアの理髪師」というほうがカッコいいのかもしれません。ただ、私は毎月、床屋に行くんであって、「理容師」の世話になったり、「理髪店」に行くわけではありません。

実は、今朝(4月4日)、この原稿を書き、昼休みに近くの床屋で、見目麗しき女性(年齢不詳)に「頭を刈って」もらったのです。そのときの話です。

「理容学校を出て近所の床屋で3年ほど勉強させてもらい、それからかれこれン十年、職業はと訊かれれば床屋ですと答え、書類に職業欄があれば理容師と書いてますね。理髪師ってなんか気取ってて、使ったことはありません」。

ま、そんなものでしょうか。

ところで、『セビリアの理髪師』の戯曲は1775年にフランスの劇作家カロン・ド・ボーマルシェ(1732~99)によって脚本が書かれました。そして、『フィガロの結婚』(モーツアルト、1784)がその続編であることは言うまでもありません。その主役ということで、世界一有名な床屋になったフィガロは、むしろ「セビリアの便利屋」というほうがピッタシのように描かれています。そして、大作曲家ヘンデル(1685~)の父は理髪師にして外科医、ですから「理容外科医」barber surgeonとして勤勉に働いた人です。床屋の店頭に残る赤・白・青の棒は、中世ヨーロッパにおいて、理容外科医にやってもらうとき手術の握り棒として用いられ、その後、「客の求めに応じて瀉血(瀉血療法瀉血刺絡 bleeding)いたします」ということを表示するために看板のように用いられたというのが、サインポールの始まりとされています。ヘンデル(1685~1759)のお父さんももしかして、サインポールのようなものを家の前に掲げていたのではないでしょうか。

そうそう、わが中学のクラスメートにも秋田で床屋をやっている楢屋吉雄くんというカッコいい男がいます。これがまた(私に似たせいか>顔も性格もいい奴なんです。先日も私が秋田で講演するという前夜、同期のみんなを誘って集まってくれ、一夜を楽しく過ごしました。そのなかで、他の連中が言っていたのは、「楢屋はきれえにしてるども、トゴヤだがらあだりめだ」。そこで終わればいいものを「フギ(吹浦)はやっぱし、都会の人だもな。アガ脱げ出る」と(お世辞を)いうヤツが居ました。(「実力」は置くとして)久々に会ったのですから、私も特に反論せず、テレもせず、いい気分で杯を重ねていました。

それはさておき、その「床屋」という言葉ですが、古くは、『梅津政景日記』(慶長17年=1612〕に「今日も床屋より火事出候間、床屋を皆々ぬらせ候へと申付候」とあるようです。梅津政景、これがまたわが故郷・秋田(久保田)藩の家老であり、この日記は藩政や当時の武士や庶民の生活を知るうえにおいての貴重な史料とされています。床屋という言葉はこの時代にすっかり定着していたわけです。

『日本国語大辞典』によれば、江戸時代、男の髪を結う髪結職が床店(とこみせ)で仕事をしていたところから)髪結床(かみゆいどこ)と言ったのが「床」が利用の意味で使われた始まりのようです。大相撲には「床山」がいますものね、古い言葉なのでしょう。1817年の句に「はふり子は床や也けり里神楽」というのがあるそうです。

『文明開化』という加藤祐一の作品(1873)には「何某は狐に誑(ば)かされたさうなと、風呂屋でもいひ床屋でもいふ」とあります。

他方、「理髪」や「理容」については、平安時代で、『有職(ゆうそく)故実』(古来の朝廷や武家の礼式、典故、官職、法令などを収めた本)の「元服の儀式」の項に「理髪役」として記載されており、「髪を結い、髪をおやす(切る)人」とある。この理髪の語源は、中国語の理髪(リーハー)から発したものとみられます。

『応仁記』(15世紀後半)には熊谷訴訟之事の中に「義政将軍〈略〉御連枝浄土寺御門跡を還俗させ申されて、将軍を相続し、〈略〉再三辞退申させ玉ひ、理髪事夢々有まじき由御返事有ければ」とあります。

徳富蘆花の『思出の記』(1900〜01)では「僕は理髪舗に行って其れから湯に入って」とあるのですが、理髪舗と書いて「とこや」とルビを振っているようです。などなど明治時代の使用例をいくつか挙げています。

他方、理髪はもっと古く、『日本大百科全書』で坪内靖忠が書いているところによれば、理髪という語が日本で用いられたのは平安時代で、古来の朝廷や武家の礼式、典故、官職、法令などを収めた『有職故実』の「元服の儀式」の項に「理髪役」として記載されており、「髪を結い、髪をおやす(切る)人」とあるそうです。また、『猪隈関白記』(1199)に「理髪具 末 額 鬘二流 簪 釵子 彫櫛二枚 本結 日蔭鬘」とあります。さらに唐人躍(1677)の句に「柳にも理髪やしるきこみ鋏」とあるようです。

一方、理髪という語が日本で用いられたのは一般には1879年(明治12)に「理髪人」と記した営業鑑札が発行されてからです。なお、床屋が月曜日に休みというのが多いのは、第二次世界大戦中の電休日が、そのまま休日として定着したものという説が有力ですが、

実際、週末に散発するという人が多く、次の月曜を休むというのは理にもかなっているように思います。戦前はいつが床屋の休みだったんでしょうね。

また、一世風靡の古川ロッパ(緑波)の日記(1934年3月19日付)に「浅草で理髪し、ひるの部終って中西でランチを食ひ」とあります。いかにも古き佳き時代のモダンな感じが「理髪」の語に滲んでいるようです。

もう一つの「理容」については労働基準法(1947)年の第8条に「理容の事業」として、出てくる例のみ挙げられています。同じ年に理容師法が制定され、その中でも「理容とは、頭髪の刈り込み、顔剃り等の方法により、容姿を整えることをいう」と定義されています。

私は数十各国で床屋に行ったことがありますが、近年、日本における理容業界の発展は著しいものがあり、世界の理容界をリードしているといってもいい高い水準だと思います。ベトナムなどインドシナ諸国、そしてアフリカの国々では並木道のほとりや街頭に床屋が並んでいます。難民を助ける会ではミャンマーで障害者に理容や美容の基礎的な技術を指導して間もなく10年になります。また、難民といえば、1968年のソ連軍主導のワルシャワ条約機構軍による軍事介入(チェコ事件)で多くの理髪師が国境越えてオーストリアに逃れ、さらにオーストラリアに渡ったことは事実です。当時、私はウィーンで散発してもらった際、そういう難民の一人から聞きました。「私らは櫛と鋏が世界中、あればどこでも商売が出来る。戦車が走り回ってるようなところにはもういたくない。3ヵ月後にオーストラリアのブリスベーンに行くようになっている」。その態度は手に職のある者の強気なのだと、妙に納得したものでした。

まだまだサインポールはほとんど出てきませんが、まずはここまでとして、次回の続きをお楽しみください。

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