アメリカの南北戦争(1861~65)の期間にあっては、南軍は11州、北軍を構成する州は開戦当時22州でした。北軍はオレゴンの州昇格に伴う1859年以来の33星の「星条旗」で開戦、その後61年7月4日には「星条旗」はカンザスの州昇格に伴う34星となり、63年からはウェストバージニアの州昇格に伴う35星の「星条旗」で終戦を迎えました。一方の南軍(アメリカ連合国軍)はほとんどの場合、この画像の「国旗」(「レベル・フラッグ」)を掲げて戦ったのです。南軍を支えた州は11州だったが、ミズーリ州とケンタッキー州の反対党派が連合に合流したため、南軍の旗の星の数は13。
33星の「星条旗」
34星の「星条旗」
35星の「星条旗」
南軍の海軍旗。南軍を代表する旗として記憶されています。中央は最初の南軍の国旗だったもの。右は1865年の終戦直前に南軍の国旗として採択されたもの。アメリカ連合国(南軍)の旗は1861年3月5日から1863年5月まで使われ、「Staras & Bars」と呼ばれていた。7つの星は最初に連邦を離脱したサウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスの7州を表わす。その後、南部連合に加入する州が増えるたびに増え、1861年11月には13個に増えています。但し、このデザインでは、北軍の「星条旗 Stars & Stripes
との区別がしにくいため、海軍旗であったものを使ったり、敗戦間際にそれを取り入れた赤白赤の旗にしたりしたのです。
東京・赤坂で。
ストーンズ川でのローズクランズの戦い(テネシー州)
ハインドマン砦の戦い(アーカンソー州)
ゲティスバーグの戦い(1863年7月1~3日)
(絵はいずれもウィキペディアの南北戦争の項から)
「サインポール」(床屋の標識・3色ポール)について私はフランスの国旗(「トリコロール」)か、アメリカの国旗(「星条旗」)が戦場に掲げられているところで戦傷者が手当てをうけていたことが大きく影響しているのではないかと思います。
フランスの場合は、ナポレオン時代に「トリコロール」が欧州を席捲しましたので、戦場で見られたとすればこの旗です。アメリカの場合は、南北戦争(1861~65)の間に三つの「星条旗」に変わっていましたし、また南軍の「国旗」も青白赤の三色ですので、これもどの旗か判りません。
とりあえずは、しばらくは余談を書きますが、復習をかねて「国旗と床屋」の余話と思ってお付き合いください。
中世から近世にかけてという時代は、今から考えると、とても信じられないような職業が生業として成り立っていた時代のようです。「理髪外科医」でもいささかびっくりですが、「公示人(街角で広報・宣伝を行う仕事)」、「ジオラマ師(透かし絵の描かれた長い巻物を展示する人)」、「葬式通報人」(他人の死亡を吹聴して歩く人)、「楽譜めくり」(演奏者の脇で楽譜をめくってやる人)、「シャンデリアの蝋燭の芯切り人」「つけぼくろ師」「代書人」「抜歯屋」「股袋(ブラゲット)師」(腰に下げる小袋専門の裁縫人)「マッチ売り」(アンデルセンの作品は1848年の作)、「ランタン持ち(ファロティエ)」「従軍世話人」(将校お付の雑用をする私的随行人)、「染み抜き屋」「喫湯店(テルモポリー)経営者…。
『パリ職業づくし』(ポール・ロレンツ監修、北澤真木訳)に紹介されていますが、中世から200年くらい前までには普通に見られた、フランスの職業です。
現在の理髪店の店頭にある赤・青・白の三色ポールは、かつて理髪店が外科医をかねていた名残りです。今では赤は動脈、青は静脈、そして白は包帯の色と説明されることが多いですが、それは後になっての理屈付けだと私は思います。むしろ、単にそこが理髪店であることを示す看板の役割を果たしているもの、でよいのではないでしょうか。
昔は、「あめん棒」と言われ、また、ひねりを加えた形が、安土桃山時代にポルトガルから伝来した砂糖菓子有平糖とよく似ていたことから有平棒(あるへいぼう)ともいわれていたそうです。 固定した看板棒でしたが、現在は電動回転式のものがほとんど、となっています。
昔は悪い血を抜くことは有効な治療法と考えられていたようで、頭痛持ちから痛風患者まで気楽に理髪医師のところに足を運びました。腕に傷を付けるやり方ありましたが、もっと簡単なのは「ヒル」に血を吸わせる方法です。今ならとてもじゃないが勘弁してください、という話です。
この瀉血(しゃけつ・血を抜く)という療法では、静脈を浮き出させるために、患者の足元から棒を立たせて握らせたらしく、それがサインポールの始まりと言われています。ですから色は、その棒を血がつたうイメージを表現した、赤と白だけという説もあります。それにフランスかアメリカの国旗の影響で青が加わったという見方は説得力があるように思います。
ポールの頭部には真鍮製のお椀をかぶせてありましたが、これはヒルを入れ、血を受けるための容器の象徴という説もあります。
ヨーロッパでは中世の後期になると、十字軍遠征などを契機に高度なイスラム医学が伝えられました。アルコール、アルカリ、コットン、ジャー、キャンディ、マッサージ、シロップ、レモン、オレンジ…こういう単語はアラビア語に語源があるのです。
イブン=シーナー(アヴィケンナ)の『医学典範』はラテン語に翻訳され17世紀まで大学の医学教科書として使われていたとか。12世紀にはイタリアのサレルノに最初の医科大学ができました。
大学で学んだ外科医とそうした勉強をきちんとしていない理髪師はやがて区別されるようになりました。しかし、多少の外科等の医療行為(眼科や耳鼻科など)も含めて、理髪をすることを生業とする人たちは「理髪外科医」と呼ばれていたのです。
この他にも、ナポレオンが最終的に敗北したワーテルローの戦い(1815)の際、フランス軍では理髪外科医のいた野戦病院の入口に「三色旗」を旗竿に巻き付けておいたものに由来するとする説やアメリカの南北戦争(1861~64)で傷病兵が運ばれた先には青白赤の「星条旗」があったからという説もあります。2005年7月20日放映の「トリビアの泉 〜 素晴らしきムダ知識」では、全国理容衛生同業組合連合会の意見によって、「赤は動脈、青は静脈、白は包帯というのは間違い」であるとして紹介されました。結論を言いますと、有力な説ではありますが、論証されてはいないというほかありません。
最後に1つ、文部科学省地球科学課で聞きました。南極の昭和基地では「理容はどうしているのでしょうか?」。「同行している医師があらかじめ理髪技術の研修を受けて31人の越冬隊員のそうした面もみてやっているのが普通です」。「理容外科医」健在なり!?