「1937年7月28日、北シナ駐屯日本軍は中国軍に対して総攻撃を開始し、いち早く北京を占領した。写真は、日章旗を掲げ古都・北京の天安門の石段を登っていく日本軍。8月13日には上海で日中両軍が交戦を開始し、一方、日本軍は石家荘、太原を占領し、日中戦争は泥沼に入っていく」(説明文を含め、『LIFE AT WAR』より)。
支那(当時の一般的な呼び方)、マレー、ジャワ、比島(同、フィリピン)など占領地には早速、「日の丸」が掲げられ、現地の住民は手渡された「日の丸」の小旗を否応なしに振って、恭順と歓迎の意を示させられたのでした。
一方、「日の丸行進曲」が歌い奏でられ、梅干1個だけの「日の丸弁当」が登場した内地では、「祝出征」「祈武運長久」などと書かれた「日の丸」をたすき掛けにした出征兵士を、町内総出で見送る光景が日常的に見られるようになりました。次第に老人・婦女子ばかりとなる顔見知りの人々の中を、高齢や若年の兵士が馴れぬ手付きの敬礼で、不安を抱きながら応召しました。万歳と「勝って来るぞと勇ましく 誓って国を出たからは…」の歌に送られて、発って行ったのでした。
「日の丸行進曲」という曲は1936(昭和11)年発表の松坂直美詞、河村光陽曲のものと、38(昭和13)年発表の有本憲次詞、細川武夫曲の2つあります。前者は、
赤は勇気を 正義を示し 白は博愛 平和のしるし
という歌詞で、これでは<時代>の要請にそぐわなかったとみえ、あまり歌われなかったようです。他方、後者の1番と4番の歌詞は、こういうものでした。
母の背中にちいさい手で 振ったあの日の日の丸の 遠いほのかな思い出が
胸に燃え立つ愛国の 血潮のなかにまだ残る
去年の秋よつわものに 召し出されて日の丸を 敵の城頭高々と
一番乗りに打ち立てた 手柄はためく 勝ちいくさ
「敵の城頭高々と」は前年11月13日に国民政府の首都・南京を陥落せしめた日本軍をそのまま歌ったものでしょうか。ついで日本軍は38年になって、青島(チンタオ)、威海衛、厦門(アモイ)、徐州、広東、武漢三鎮などを占領し、城頭に次々と「日の丸」を掲げていったのでした。