オランダの王位継承者ユリアナ王女(1909~2004、在位1948~80)が三女マリフレーテ(今のベアトリクス女王の妹)を出産したときの話を紹介しましょう。
第二次世界大戦中の1940年、ナチス・ドイツの侵略により、母であるウィルヘルミナ女王と共にまずイギリスへ亡命、女王の計らいでユリアナ王女は長女ベアトリクス王女、その娘にあたるイレーネ王女を連れて、女王の従妹であるカナダ総督夫人アリスを頼って、オタワへなんを避けました。
その間にユリアナ王女は臨月を迎えたのですが、オランダの王室典範では「王位継承者はオランダで誕生した者に限る」となっており、しかも、オランダは二重国籍を禁止していました。
逆に、カナダでは当時、カナダで出産した場合はその子にイギリス国籍が与えられる制度でした。
このため、マルフリーテの王位継承権どころか、オランダ国籍さえ取得できない事態に陥ってしまったのです。
そこで、カナダ議会が急遽、ユリアナ王女の分娩室にオランダの大使館同様の治外法権区域とする特別法を制定し、オランダの国旗を掲げ、マルフリーテが本来持つべき諸権利を保護した。
何とも粋な取り扱いをしたものです。
第二次世界大戦終結後、女王も王女たちも帰国したが、ナチスの支配に苦しんだ国民を置いて外国で暮らした王室、国民の気持ちは複雑でした。
結局、1948年、ウィルヘルミナ女王は譲位し、ユリアナ王女が王位に就いたのです。
新しいユリアナ女王は懸命に戦後のオランダに復興に貢献し、今日の欧州有数の平和と繁栄を享受する国に建て直す努力をしました。
そしてオランダ王室はオタワでお世話になった返礼として、また、友好の象徴としてこれまでにチューリップの球根を数10万本も贈り、オタワは毎年5月に行われる、世界一のチュリップ・フェスティバルで知られるようになり、「チューリップ・シティ」の別称があるほどまでになったのです。
ところで、19世紀の初め、オランダがナポレオンに支配されている間、世界では長崎の出島がほとんど唯一、オランダの国旗が掲げられていた場所なのです。
また、わが国がいわゆる鎖国の時代にあっては、オランダから当時の世界の国旗についての書物も次々に流入し、日本の浮世絵や版画の技術で多くの国旗がカラー印刷され、今日に伝えられているます愛知県西尾市の岩瀬文庫には10冊近くもの国旗関係稀覯本が残されています。
また、ボストン郊外のFlag Research Center(ホイットニー・スミス代表)にはも追う少し多く、さらに吹浦忠正の手もとにも数冊あります。
他にも古い大学の図書館や地方の県立図書館等にも、以外に幕末に刊行された国旗の書物がありそうです。
あなたもタイムスリップして「幕末国旗探検隊」になって見ませんか?