この6月のことでした。カンボジアのメアス・アスナさんから、メールが来ました。
「このたびカンボジア政府の財務事務次官のようなポストに就任しました。添付しているのは国王からの任命状です」。
嬉しかったですね。パチンコ業界の最大手マルハンの関連会社である、マルハン銀行プノンペン視点からの出向で、カンボジアの国家財政の運営に重要な役割を果たすことを期待されているのです。
マルハンは韓昌祐が1972年に設立し(創業は1957年)、2012年7月末現在、徳島県、鳥取県、島根県、沖縄県を除く全国276店舗を展開するパチンコホール最大手企業です。企業テーマとして、「新しいパチンコへ」を掲げ、2009年3月期に売上高が2兆円を突破し、業界2位のダイナム(2009年3月期・約9,706億円)を倍以上上回りました。
東日本大震災では多くの店舗が被害に遭い、また従業員やその家族にも亡くなったり行方不明の人がいる、と創業者の長男・韓裕社長から伺いました。
パチンコ業界は上場を悲願とし、マルハンは上場を目指し東京証券取引所と協議をしたこともあります。しかし、以前、別のパチンコホール企業がジャスダックに上場申請した際に、「パチンコホールの営業形態には完全に合法とは言い切れない側面があり、厳密な意味で投資家の保護を保証できない」という理由で申請を却下されたことがあり、上場は今のところ極めて厳しいとされていわれていますが、今後の大きな挑戦課題でしょう。
しかし、業界の横断組織である社団法人日本遊技事業関連協会(日遊協)は私のようなかつて業界に「悪口雑言」の限り?をいいつのってきた外部理事を5人(元・東海地方警察本部長、前・報知新聞社長、弁護士、大脳生理学者と私)も入れて、何の遠慮もない意見を活発に出させ、業界の健全運営と世間の誤解払拭に全力を挙げてきました。
私もいろいろな団体に関係していますが、隔月の日遊協理事会でご一緒するみなさんは、他にまさるとも劣らないすばらしい30人です。ちなみに今の深谷友尋会長は立教大学でのクリスチャン、寛仁殿下とは親友ともいうべき方です。なぜか、青山学院と立大の出身者が多いのも意外でした。
私はその意気込みの素晴らしさを目の当たりに見ています。みなさん、この業界の公正な運営への努力と社会貢献、情報公開を凝視してください。今や必要不可欠な健全娯楽として社会的存在意義を高めています。
私はこの業界についていつも口癖のように言っている1つは、自分の名前を付けてパチンコ業であることが一目瞭然な会社を創るべし、ということです。「~商事」「~工業」「~観光」「~コーポレーション」「~産業」ばかりなのです。自分の職業に地震と誇りがあるなら堂々と「吹浦パチンコ」とでも名乗るべきだということです。どなたか私に五?億円くらい出資してくれるなら、私は即刻、こういう生で起業したいと思っているくらいです。
今度の東日本大震災でもセガサミー、サンキョー、浅沼産業、ボネールなどなど私が理事長をしている社会福祉法人さぽうと21には数百万円から一億円のご寄付をして下さっています。この法人(難民を助ける会の国内支援事業を1993年に分離したもの)こそ、メアス・アスナさんをはじめ、のべ数千人の在任外国人出身者の就学支援をしてきている組織なのです。
それはさておき、マルハンは各種レジャー産業にとどまらず金融業への進出もはかっており、2008年5月22日にはカンボジアで”MARUHAN Japan Bank Plc”銀行を開業しました。 同行はカンボジアで初めて日本企業の出資により開業する商業銀行です。資本金は2500万ドルでマルハンの出資比率は85%で残り15%はカンボジア国内資本となっているそうです。
アスナさんが小学生だった時から、メアス家とは家族付き合いをしてきました。難民を助ける会は1979年の創立以来、在日インドシナ難民への支援にあたってきましたが、お父さんのメアス・チャン・リープ氏は常に敬服する存在でした。在日カンボジア難民の統率者であり、その後、国会議員として国家再建にあたった人です。
メアス氏はもともとは軍隊で砲撃部門を担当していましたが、理系の研究者であったので、シアヌーク国王の命令で日本に留学し、花火の研究をしました。それを機会に田鹿令子さん(中央大学で卓球部のキャプテン)と結婚、帰国後、軍人として師団長にまで出世し、1975年、ポル・ポト派が首都を陥落させ、全土の大半を勢力下におさめた時、西部のバッタンバンで2千人もの部下を抱えていたそうです。
「たまたまタイとの国境地帯に近い場所での“終戦”でした。そこで、部下たちに訓示しました。『ここで師団を解散する。諸君は帰郷してもいいし、自分についてくるのもいい。ただ、国境を超える。』。あれがわが人生最大の悔いです。なぜ、『みんなで一緒に、一時、タイに渡ろう』といわなかったのだろう。付いてきたのは17人、ほとんどが故郷に向かい、ほぼ全員がポル・ポト時代に亡くなってしまったと思わざるを得ない。
後に、メアス氏と日光に旅行した時、私にポツリと語った一言です。
メアスさんは行政に卓越したソン・サン元首相・蔵相に近い有力者として「パリ和平協定」の締結に奔走しました。
国会議員になってすぐ、再建されたプノンペンの議事堂に案内し、ご自分の議席に座らせてくれました。常に用心棒(ガードマン)が4人も着いて、再興された素敵なフランス・レストランや川岸のカンボジア料理店で美食をともにしたときでも、実は内心はらはらしたものでした。
しかし、当時のカンボジアの内政はひどく腐敗したものであり、各派の凌ぎ合い、せめぎあいは国家を忘れた低次元のものでした。
訃報が届いたのはほんのすぐ後、95年8月8日のことでした。メアス氏は議事堂内で政界の浄化を期待する遺書を遺して、拳銃自決したのです。
私はただちに飛行機に飛び乗り、葬儀に参列しました。「カンボジアで上座仏教ではこうした有力者の葬儀には亡くなった人の年齢と同じ数の僧侶をお招きするんです」。濃黄色の衣を纏うお坊さんの多さに驚く私に令子夫人が気丈に教えてくれました。
アスナさんは一番下のお嬢さんです。お母さん譲りの運動神経と長身で、ハンドボールでは全日本クラスの名プレーヤーでしたが、たまたま体調を壊し、心ならずも選手生活を中断しましたが、プノンペンでインフラ整備にあたる前田建設に、お兄さんのメアス・トミーくんとともに勤務し、日本語、カンボジア語、英語を駆使して、活躍していました。
メアス氏の透徹した人格とたぐいまれな識見、カンボジアへの祖国愛には何度も打たれました。そういう人がいるからこそ、33年間、難民を助ける会と社会福祉法人さぽうと21に「無給持ち出し」で関わってこることができたのだと思います。
アスナさんのさらなる活躍でカンボジアがこの急速な経済発展と社会の安定を推し進めてくれることを願っています。このご一家こそ、日本とカンボジアの本当の懸け橋になってくれる方々だと期待しています。