ハリスが掲げた31星の「星条旗」
下田時代、ハリスはピアース大統領からの親書提出のため江戸出府を望むのですが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、江戸出府はなかなか果たせませんでした。幕府は何とかしてハリスの江戸出府を引き止めさせるため、ハリスと書記官兼通訳(オランダ人)ヘンリー・ヒュースケンの身の回りの世話をする侍女が必要であろうと女性の斡旋を企図し、他方、ヒュースケンは病気がちなハリスの世話をしてくれる看護人を所望したようです。当時の日本では看護婦(師)ということが分からず、奉行所が眼を付けのが芸者・お吉(本名・齋藤きち)でした。ところが、ハリスは敬虔な聖公会信徒で役人の企みを見抜いて激怒し、お吉を即刻解雇したのでした。
先年、下田で講演を依頼された際、郷土史家たちから聞いた話ですが、お吉もなかなかできる人物だったようで、二人のために牛肉や牛乳の入手にも努めました。特に、ハリスが体調を崩し、牛乳を欲しがったのですが、当時はこれが容易に手に入らずに困っていました。それをお吉がようやく近郊の農家から手に入れ、実際には「竹筒に入れて運んで飲ませたという記録が残ってい」るそうです(ウィキペディア)。「この記録によると、その価格は8合8分で1両3分88文と非常に高価で、当時の米俵3俵分に相当した」(同)そうで、これが日本で牛乳を公式に売買して飲用した最初ということで、玉泉寺には「牛乳の碑」が建てられています。
下田の玉禅寺にある碑
そういう敬虔な人物に対し、ハリスやヒュースケンの名が出ると昭和初期以降「唐人お吉」との事実に反する風説が流布し、信仰深いハリスのイメージが傷つられたのは遺憾です。特に1928年、十一谷義三郎(1897~1937)の小説『唐人お吉』が大ヒットし、国民文芸賞を受賞、これがさらに無声映画になって誤解が広まったのは残念なことです。時代的背景、外国人に対する偏見、男女間についての俗的想像等のなせる結果でしょう。
そうした偏見の続く中で、晩年のお吉は哀れでした。アルコール依存症となって下田での小料理屋も廃業し、数年間、物乞いをした後、1890(明治23)年3月27日、稲生沢川に投身自殺しました。享年48。「今では下田観光のキーパーソンのようになっているお吉ですが、当時の人たちはお吉が亡くなってからも冷たく、実家の菩提寺は埋葬を断ったほどです。外国人に対して特段の偏見があった明治の話ですから無理もありません。これを哀れに思った同じ下田の宝福寺の住職が境内の一角に葬ってくれたのです」と郷土史家たちは語ってくれました。
ハリス自身は日本に好意的で「喜望峰以東の最も優れた民族」と述べていましたが、混浴の習慣は耐えきれないものだったようで、「このような下品な習慣は理解に苦しむ」と述べていたほどです。
斎藤きち(19歳当時)
ここまで書いて、週刊文春(2012年9月6日)を開いたところ、「プロデューサー石井ふく子特別対談」として女優・佐久間良子さんとの対話が目に留まりました。そこにはわざわざ「注」として「主人公のお吉は幼馴染の鶴松との恋仲だったが、アメリカ人の妾にされる数奇な運命をたどった」と書かれているのです。
また、これに続いてこんな対話があるのです。
石井:特に壮絶なのは、一幕の終わりの部分ですよ。お吉が外国人に身を汚されてしまって、水をかぶって身を清めるところ。
佐久間:最近は歌舞伎なんかでもいろいろ演出をなさいますけど、あれはやらないでしょうね。舞台で女の人が本物の水をかぶる。
石井:ないですね(笑)
佐久間:そして怒ったお吉がアメリカの国旗を踏みつける場面ですよ。もともとのストーリーではあったけれど、いろいろと問題があって、実際にはやらないことになって…。
石井:国旗を踏むのは駄目だったんですよね。お吉がカッとなって、旗を踏みつけるのは絵になる場面だけれど、できなかった。それで佐久間さんに、「すみません、水をかぶってくださいとお話して」
佐久間:「あれはほんとうにびっくりしました」。
85歳のプロデューサーと73歳の東映の元看板女優の回顧談に目をむくのも大人気ないかも知れませんが、この物語、もっと歴史的事実を究明しないことには、もしかして、お吉とその縁者に大変な失礼をしているのかもしれません。大衆小説の怖さです。