人間だれでも戦争には反対であり、平和と安寧、秩序と発展こそ幸福な人生の必要条件だと考える。私はとてもちろん同じであり、戦陣に亡くなられた英霊もまた同様の思いであったに違いない。それだけに英霊への感謝の気持ちはしっかりと保持し、身を慎みつつ、この平和な時代にあって、日々を励みたいものだ。
靖国神社社務所が毎月刊行している小冊子「やすくに」は1面のエッセイ「靖濤」が特に読ませる。
3月号も「この冬は全国的に厳しい寒さが続き、関東地方は年明け14日に大雪に見舞われた。東京では珍しく一時吹雪にもなったが、こうした日は北辺の地で戦われた数多の御祭神の姿を想起させられる」という、身の引き締まる書き出しで始まっている。
山崎保代大佐
1年の内、晴天の日が10日ほどといわれる酷寒の島アッツ島。昭和18年5月、日本軍守備隊2,650名は、上陸してきた米軍11,000人と18日間の激戦を繰り広げ、同月29日には山崎保代大佐(1891~1943、戦死後2階級特進により中将)率いる陸海軍の生存者300名が最後の突撃を敢行した。
山崎部隊長は守備隊の先頭に立ち、右手に軍刀、左手に日の丸を握りしめ米軍の陣地に向け進撃、敵弾に二度三度と倒れたが、怯むことなく気力を振り絞るようにして立ち上がり肉薄したという。この戦いでは、敵の圧倒的火力により玉砕を余儀なくされたが、米軍の戦史には「突撃の壮絶さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」とその勇戦が讃えられている。
この島では日本兵29人が重傷を負いながらやむなく捕虜になっただけで、まさに、玉砕。その後の玉砕戦の始まりだった。戦後、遺骨収集にあたった厚生省の調査団は、攻撃部隊の最先頭で山崎大佐の遺骨と遺品骨を確認した。指揮官が先頭に立って最後の攻撃にあたるという軍人精神を全うした最期であったということだ。
ところで、当時、大本営は部隊の「全滅」を意義ある美しい言葉にしようとして、李百薬による『北斉書』元景安伝(636)の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全」(立派な男子たる者は潔く死ぬべきであり、瓦のようにただ無事に生き延びるより、玉のように美しく砕け散るべきである)を原典とする、「玉砕」の語を持ち出して、敗戦を美化したのであった。
また、西郷隆盛(11827~87)による、
幾歴辛酸志始堅(幾たびか辛酸をなめて志始めて堅し)
丈夫玉砕恥甎全(立派な男子たる者は玉砕すとも甎全を恥ず)
とし、同じく「玉砕」の大局的な言葉として「瓦全」を置いている。
さらに、有名な「敵は幾萬ありとても」で始まる軍歌「敵は幾萬」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)を1886(明治19)年に発表し、戦意昂揚に活用した。
敗れて逃ぐるは國の恥 進みて死ぬるは身のほまれ
瓦となりて殘るより 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず
この歌は玉砕を美化し、敢闘精神を讃えている。欧米の軍にあっても、敢闘精神はもちろん将兵の義務として讃えられるが、およそ3分の1の死傷者が出れば、降伏して恥としない慣行がある。日本軍は文字通り、最後の一兵まで戦った。
「全滅」を「玉砕」と美化して言い換えた類似用語には「撤退」を「転進」、「戦死」を意味する「散華」などがある。
日本軍が玉砕した戦闘はこれより先、1942(昭和17)年12月8日にバサブア守備隊が、また、1943(昭和18)年1月2日にブナ陸海軍守備隊が玉砕しているが、これらの事実は終戦末期まで秘匿された。
以後、太平洋島嶼に散在した日本軍の守備隊は、ウィキペディアのデータに拠れば、次の通り。
5月29日:アッツ島守備隊玉砕
11月22日:ギルバート諸島のマキン守備隊玉砕・タラワ守備隊玉砕1944年(昭和19年)
2月5日:マーシャル諸島のクェゼリン環礁守備隊玉砕
2月23日:マーシャル諸島のブラウン環礁守備隊玉砕
7月3日:ビアク島守備隊玉砕
7月7日:サイパン島守備隊玉砕
8月3日:テニアン島守備隊玉砕
8月11日:グアム島守備隊玉砕
9月7日:拉孟守備隊玉砕
9月13日:騰越守備隊玉砕
9月19日:アンガウル島守備隊玉砕
11月24日:ペリリュー島守備隊玉砕1945年(昭和20年)
3月3日:南太平洋・ニューブリテン島バイエン
3月17日:硫黄島守備隊玉砕
6月23日:沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により組織的戦闘終了)
個々のケースをしっかり確認したわけではないが、おそらくは国旗、陸海軍旗、部隊旗などを奉焼したり、山崎大佐のように、掲げながら突撃したり、自決したのではあるまいか。
国旗「日の丸」の辛くも悲しい一時代の姿だった。合掌。