1975年4月30日、サイゴンが北ベトナム軍に席巻された翌日、チョロンには南ベトナム解放人民戦線(ベトコン)の旗と、北ベトナムの「金星紅旗」と、そしてわずかだったが中国の「五星紅旗」が掲げられた。
南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)の旗。
1968年の「テト攻勢」以降、その勢力は減退し、1975年までには名目的存在に近くなっていた。
当時、サイゴン(現・ホーチミン)に踏みとどまった井川一久朝日新聞特派員はそれを見て「いつの間に準備したのか?」と思った。
ところが、5月3日、「五星紅旗」は全部、消えた。ベトナム共産党が軍人を動員して全部撤去したのだった。ベトナムと中国の関係の厳しさが判った。だが、人民日報の題字と同じ書体の人人日報という新聞が、かつて南ベトナムのチョロン地区にあったことが分かった。中国共産党南ベトナム支部が密かに存在したこともこれで明らかになった。
もともと、チョロン地区には国民党系の中国人のほうが多かった。街中には台湾の中華民国の国旗「青天白日満地紅旗」もかなりの数が掲げられていた。チョロンはシンガポールに次ぐ、東南アジア第2の華僑都市。米の流通を握って、南ベトナム経済に大きな力を保持していた。
「解放」直後、最初に国外脱出して難民となった多くが、チョロンからの中国系ベトナム人である。難民を助ける会が全面的に支援して、在日難民医師第一号となったトラン・ゴク・ランさんの一家も、チョロンからの「ボートピープル」だった。
以上は、去る6月17日、ユーラシア21研究所で行われたメコン地域研究会(会長:阿曽村邦昭元駐ベトナム大使)の月例研究会で、井川氏が講演した一部に加筆したもの。