「黒人選手に観客がバナナ 大リーグ、相手球団が謝罪」として、時事通信が8月12日に次の記事を流しています。
米サンフランシスコで11日に行われた大リーグの試合で、黒人のスター選手が守備に就いた際、スタンドからバナナが投げ込まれ、黒人選手をサルに見立てた人種差別的な意図だった可能性があるとして波紋を呼んでいる。欧州や南米のサッカー界などでは、黒人選手の前でサルのまねをしたりする行為には、厳しい措置が講じられている。
問題の試合はジャイアンツ―オリオールズ戦。オリオールズのアダム・ジョーンズ外野手が本塁打を放ち、その後守備に就いた際、相手チームのファンがバナナを投げ入れた。試合後、ジョーンズ選手はツイッターで不快感を表明。ジャイアンツ側は12日に謝罪声明を発表した。
バナナを投げた観客は、地元紙の取材に対し、負け試合にいら立ち、ふがいないジャイアンツ側に向けたものだったと釈明。差別的な意図を否定している。
アメリカにオバマ大統領が出現したからと言って、人種差別がなくなったわけではありません。表面ではずいぶん少なくなったと感心しますが、潜在的な根強さは抜きがたいものがあります。
この観客が、「負け試合にいら立ち、ふがいないジャイアンツ側に向けたものだった」と釈明し、「差別的な意図」はないと言っているとしても、それでは許されることではないのです。
ここで書くのは気引けるので避けますが、世界には相手を侮辱するような言葉や行為がたくさんあります。国旗についてもそれはありますが、ここでは他国のことを言うのではなく、日本の国旗について述べるにとどめましょう。
中国には日本の国旗を貶める表現があります。「日の丸」を中国の貶義語で「膏薬旗gao yao qi」というのです。待場裕子さんという中国語学の専門家の方は「日本の侵略に抵抗した中国の民衆の中で、日の丸は<膏薬旗>(丸い膏薬を貼った旗)といわれてきた事実も、私たちは知っておくべきでしょう」と言っておられます。
また、ある中国についての専門家から「楚云著『中日戦争内幕全公開』(時事出版社、北京、2005年)の135頁に、<見八道楼子頂端己挿上関東軍膏薬旗>とあります。<膏葯旗>とは日本の旗の貶義語(相手をおとしめる意味の単語)として辞書に載っている」と教えていただきました。
「膏薬旗」とはいやな言葉ですが、たぶん、支那事変(シナ事変、日中戦争)当時、中国側で「日の丸」を「日本鬼子」の「膏薬」を塗りつけたような旗と軽蔑して呼んだものでしょうね。「葯」というのは白川静の『辞通』に拠れば、「薬」の俗辞だそうです。
日本人も長い間、中国人を「チャン」「チャンチャン」(泉鏡花や国木田独歩の作品)とか、「チャンコロ」(小林多喜二の同)と言っていた事実を知っておかねばならないでしょう。
一方、中国は、世界中の人が中国をチャイナ、シーヌ、キタイ、シンなどと呼ぶのは認めても、日本人がシナと呼び、支那と書くことを嫌います。東シナ海、南シナ海さえ、東海、南海と呼ばせたいようです。韓国も日本海を東海にしようと、国を挙げて国際社会に働きかけましたが、さすがに、世界の良識を突き破るには至っていません。
北海は欧州全体の北の海ですからこれは定着しています。しかし、世界の海を東西南北だけでよぶのではどこの東西南北化がわからず、東アジアでは東海の南に別の東海があるようなことにもなりかねません。
ただ、「チャンチャン」は清の時代ふうの服装をして江戸の街中で飴売りをしていた時の鉦の音から出た語(「日本国語大辞典」)なのだそうです。
また、戦時中、日本人が「鬼畜米英」と言っていたり、逆に「Jap」と言われていた歴史的事実をもあります。「ロスケ」に「イエローモンキー」もありました。
私自身、国際赤十字の活動の中で欧州出身の同僚がかげで私を「Jap」と言っていたのを聴きつけて、殴りつけたことさえあります。今では若気の至りと反省もしていますが、その時の気持ちに戻るとムラムラとするのもまた事実です。
先年、尖閣諸島での中国漁船による海上保安庁巡視船への衝突事件などの際、中国で反日デモがありました。その横断幕には「打倒小日本!」と書いています。反日は自由ですが、「小日本」はいかがなものでしょう。
こういう蔑称は、欧米やアジア各国の言葉にもあります。使わない、思い出さずにすむような時代になるよう、国旗の取り扱いを含め洗練されたナショナリズムを育てたいものです。
1925年から70年の独立まで使用された英領フィジーの旗
話がそれました。国旗にバナナというのは1つだけ、フィジーの紋章の中に登場します。但し、これはフィジーの産物として自ら選んだデザインであることは言うまでもないのですが…。
なお、フィジーではこの国旗は独立前のものとよく似ています。青がより濃い紺地であること、人物やカヌーが画かれていたことなどが違います。ただ、現在はインド系の国民が大幅に増え、この人物像だけでは具合が悪くなっているようです。なお、2005年11月には評議会で国章を独立前の紋章に戻すべきだとの決議がなされていますが、未だ変更にいたってはおりません。
また、フィジーが英連邦を離脱していた1987年から97年までの間もユニオンジャックのついたこの国旗を掲揚していました。その間、ユニオンジャックのついていないデザイン国について検討され、いくつかの案に絞り込みが行われましたが、結局、正式に採択されるまでには至りませんでした。