合掌。読売新聞11月30日付電子版が、ロイター通信を引き、以下の航空機事故を報じている。
アフリカ南部ナミビア北東部で29日、モザンビーク航空の旅客機が墜落し、乗員・乗客34人全員が死亡した。
原因は不明。同機は29日午前にモザンビークの首都マプトを出発し、アンゴラの首都ルアンダに向かう途中で行方不明となっていた。在モザンビーク日本大使館によると、日本人は搭乗していなかった。
モザンビークの国旗はこれ。ポルトガルからの独立戦争を戦った兵士たちとその伝統を継ぐ軍人をAK47で表し、農民をクワ(鍬)で、知識人を書物で表している。この国が独立したのは1975年。しかし、独立後も1977年から92年まで、断続的に内戦が続いた。
そんな中、折から「アフリカの飢餓」が叫ばれていた1984年秋、私が三宅和助外務省中近東アフリカ局長(当時)と二人で、当時の安倍晋太郎外相(現首相の父)に「日本の外相が多国間の国際会議に参加したことを除けば初めてになる外相のサブサハラ公式訪問をすべきだ」と意見具申した。「それはいい考えだ。行こう。ところでキミも付いてくるか」ということで、随員としてごいっしょさせていただいた、ザンビア、モザンビーク、エチオピアへの訪問だった。
ザンビアでは難民を助ける会がメヘバ難民居住区での活動を開始する契約交渉で難航していたのを、安倍外相からカウンダ大統領に直訴していただき、一発でOKの回答をいただいた。
続くモザンビークでは、陸上では終始、前後にAK47を構える兵士や機関銃を積んだ車両が警備にあたっていた。そんな中で、避難民でごった返すキャンプでは微かに生命の炎を続ける赤子を目前にしたり、木の下で熱心に教え学ぶ学校を見たし、大統領専用機で地方を視察したりした。ところがその4週間後、その飛行機が撃墜され、大統領が不慮の死を遂げた。当時は大統領専用機とはこんな豪勢なものかなどとぼんやり乗っていたが、いま思い起こせばかなり怖い飛行だったような気がする。
今回の事故はナミビア上空のようだから、まさか下からの撃墜による事故ではないだろうが、あの時を思い出しつつ、亡くなられた方々のご冥福を祈り、再合掌。