この正月の日程を完全に狂わせた小説がある。『勇者たちへの伝言 いつの日か来た道』増山実の処女小説である。実は、著者とは昵懇の仲。それ故に年末のぎりぎりにこの処女作を恵贈いただいたのだったが、そんな義理も人情も関係なくこの一作は間違いなくベストセラーになると確信する。
増山は50代の働き盛りの放送作家。5年ほど前か、大阪のABC(朝日放送)の人気番組「ビーバップ・ハイヒール」に国旗の話を中心として何度か出演したときのシナリオを書いた人。その時以来、私はこの人の才覚と人柄に惚れてしまった。
この小説は、仕事に疲れた放送作家・正秋が、まるで空耳のように聞いたの「いつの日かきた道」という阪急西宮北口のアナウンスだった。平成23年の西宮北口駅周辺の風景に、小学生の時に父・忠秋とたった一度来た西宮球場へ続く道とあの日の思い出を重ね合わせる。阪急球団は身売りされ、球場跡には大型ショッピングモールができた。その屋上で、正秋は父と球場に来た昭和44年の「あの日」へタイムスリップする。父子の名前を見て我田引水の私はで私の「忠正」を分解して忠秋、正秋になったような錯覚を起こした。
阪急の球場とチームに特別のこだわりを示す父、そこには8歳の自分がいて、そして父の口から驚嘆し、そして十分ありうる秘密を聞く。
当時、現実と非現実、日常と非日常が交差しながら語られていく物語には、永遠の時空とすぐそこの北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)での人と人の物理的精神的な交差が綴られている。
父の恋人が在日朝鮮人で、その女性が北朝鮮への帰還事業で帰国し、数十年、筆舌に尽くしがたい悲惨さと苦労の末、長文の手紙を寄せる。これ以上書いては、この本をお勧めしても皆さんが読んでくれなくなる恐れあり略させていただく。
ベテラン放送作家である増山の筆致はあくまで映像的である。それだけに臨場感がすごい。どこまでが実話でどこが創作か判然としない。同様に、どこが「今」でどの部分がタイムスリップなのかさえ、興奮して読んだせいか、判らなくなってくるほど引き込まれる。
放送作家としての経験とすぐれた調査力、取材力を駆使した文章で、テレビドラマを見ているような映像を自分で感じてしまう。
ずいぶん以前に書いたが、私は北朝鮮の国旗は、星の大きさ、位置、民族色である青と赤のバランスと2色が接しないように白線を入れるあたり、この国旗はデザインとして完成度の極めて高いものと評価し、そのデザイナーの名を知ろうとしたことがあったが、ピョンヤンの歴史研究所からは「不明」という返事しか来なかった。光復(独立回復)直後のことだから、もしかしたら、戦前、上野の美校(現・東京芸術大学美術学部)ででも学んだ人かと想像をたくましくしている。
また、もしかしてそのデザイナーは粛清された芸術家かもしれないとまで勝手に想像をめぐらした。それも、綿密に調べたうえで綴られたこの小説を読むと、邪推ではないような気が強まった。そうでないなら、ピョンヤンのどこかから、是非、そのデザイナーの名を教えてほしいものだ。