数年前、私はある大学で「日本とアメリカは戦争したことがあるか」と問うたところ、96名中21名が「ない」、12名が「わからない」と答えた。さすがに驚いた。
3年ほど前、この話を1997年のノーベル平和賞受賞者であるジョディ・ウィリアムズさんにしたところ、「それはひどい。でも、アメリカの若い人にアメリカはベトナムと戦争したことがあるか、ときいたら同じような割合かもしれない。ただ、アメリカは第2次世界大戦後あまりに多くの戦争をしてきたので、相手がどこだったかなど、解らなくなっているのかもしれません」との答えが返ってきた。
まして、テキサス地方の帰属をめぐっての衝突から始まり、約2年続いた米墨戦争(メキシコ戦争)のことなど、アメリカ人の常識からは消えかけているかもしれない。
フロリダ州の成立によって、1845年7月4日から翌年7月3日までの1年間続いた27星の「星条旗」。
米墨両国が互いに宣戦布告したときの米国旗。
中南米市は若いころは結構、勉強したつもりだが、かなり忘れかけているので、かつて愛読書だった中央公論社の『ラテンアメリカの歴史』とウィキペディアで復習してみた。
メキシコは元スペインの植民地。16世紀、ヨーロッパからの宣教師の中にはメキシコを経て来日した人もいる。17世紀の始め、仙台藩の支倉常長の一行がこの地を経由してローマに向かった。そのメキシコではナポレオン戦争で苦境にあった本国の状況を利用して独立運動が起こり、やがてスペインで「リエゴ革命」が発生、自由派が政権を握った。
すると、メキシコでは保守派クリオーリョ(植民地人)を代表する指導者アグスティン・デ・イトゥルビデが1821年9月15日、メキシコシティに入城し、独立を宣言した。イトゥルビデは反自由主義の立場の人物である。
しかし、イトゥルビデがメキシコ王として推戴するはずだった、肝腎の、スペインの反動派で元のスペイン王フェルナンド7世がメキシコへの入国を拒否したため、イトゥルビデ自身が皇帝に即位し、第一次メキシコ帝国が建国された。
独立後メキシコでは混乱が続き、1823年には帝政が崩壊して連邦共和国のメキシコ合衆国となった。このあと、メキシコでは経済力の低下と地方権力の争奪などにより不安定な時代が続き、1835年10月から1846年8月まで連邦制ではなく、中央集権国家としてのメキシコ共和国となっていた。
他方、アメリカ合衆国は、ナポレオンが財政難で手放したルイジアナを買収した(1803年)。これによって、西部への開拓を積極的に開始したアメリカ人たちが、メキシコの北部に流入し、このころ疲弊していたメキシコは、いよいよ混迷の度を増した。
1836年、テキサス地方は共和国としてメキシコからの独立を宣言した。フランス、オランダ、イギリス、ベルギーが相次いでこれを国家承認した。しかし、1845年、アメリカがテキサス共和国を併合した。今の国際法ならば、これはウクライナのクリミア半島や東部地方をプーチン大統領のロシアが併呑するよりひどい話だ。メキシコ政府はもちろん、その独立さえ承認しなかった。
イギリスにも下心があった。アメリカに太平洋岸の領有をさせないという戦略というか、野望があった。他方、アメリカ合衆国はカリフォルニアに自国の港を持ちたかった。このためテキサス併合と同じ年、テイラー米大統領はメキシコ領カリフォルニアおよびニューメキシコを購入したいと申し出た。
当時メキシコは国内で大混乱が続いており、例えば、1846年の1年間だけで大統領が4回、戦争大臣は6回、財務大臣にいたっては16回も交代するという混乱のさなかだった。また、メキシコの世論は買収申し出に猛反発した。
テキサス州の成立で28星になった「星条旗」。
1946年7月4日から47年7月3日までの1年間。
テキサスを併合したアメリカは、メキシコとの国境をリオグランデ(Rio Grande) 以北としていた。一方メキシコは同様にリオグランデの北側を流れるヌエセス川 (Nueses River) 以南としており、両国の主張は大きく食い違っていた。時のアメリカ大統領ジェームズ・ポークは、アメリカの主張するテキサスの領域の確保を軍に命じた。
これを受けた米軍部隊は、ヌエセス川を南に超えて、ブラウン砦 (Fort Brown) を築いた。また、1846年4月24日、メキシコの騎兵隊がアメリカの分遣隊を捕虜にした。このことから両国は戦闘状態となった。
米軍の部隊はロサンゼルスなどカリフォルニアのいくつかの町を占領した。1847年3月9日に進軍を開始し、チャプルテペック城(メキシコシティ)も攻め落とした。本稿の絵図はその時の歴史を報じる最近のNHKの番組から。絵図ではわからないが、この時の「星条旗」、星の数は28。テキサス州の成立で1個増えた。
1847年1月13日のカフエンガ条約で、カリフォルニアでの戦いを終了し、翌年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約で米墨戦争は終結した。これによってアメリカはカリフォルニア、ネバダ、ユタの今日の3州と、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半でテキサスと同様の管理権を得た。この割譲により、メキシコは国土の1/3を失った。逆にアメリカはメキシコに、現金で15,000,000ドルを支払い、また3,250,000ドルの債務放棄を実施した。
米墨戦争で勝利したときの「星条旗」はアイオアの州昇格で1847年7月4日から1年間続いた29星の「星条旗」。
メキシコ側にはこれに起因する国民の不満もあり、1864年8月22日にはまたまた政権が交代し、中央集権国家のメキシコ合衆国に戻った。
アメリカが獲得した地方は、不毛の砂漠地帯だった。しかし、わずか一年後(1849年)カリフォルニア州サクラメントで金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起こった。また、20世紀前半には、テキサス州に無尽蔵といわれた油田が発見されて、石油ブームが起き、アメリカが世界最大の経済大国になるもとになった。
米墨戦争で米側は約13,000名の死者を出した。しかし、内、戦死者は約1,700名で、多くは黄熱病など、疾病による犠牲者であった。なお、メキシコ軍の死傷者は約25,000名と見られている。
この戦争の勝敗は、米墨両国の銃火器の差であったとされる。たとえば、アメリカ軍が最新の国産ライフル銃を使用したのに対して、メキシコ軍は40年前のナポレオン戦争で使用された(一世代以上前の)イギリス製小銃が歩兵の制式銃であった。
メキシコシティ入場時に米国旗「星条旗」を掲げる米兵の喚起に満ちた様子が目に浮かぶ。