占領期の北朝鮮国旗の掲揚運動<Ⅰ>

ネットで北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の国旗について調べていたところ、戦後すぐ(建国直後)の北朝鮮旗の扱いについて、他では聞けない講演の記録がありましたので、そのほとんど全文を転載させていただき、学術研究の用に供したいと思います。いつ、どこで行われたこうえんなのかも私には判りません。どなたかご存知でしたら教えてください。関連してほかにも知りたいことがあるので、ご連絡したいからです。


この国旗をデザインした人の名前を知りたくて、在日本朝鮮人総連合(朝鮮総連)に問い合わせたところ、歴史研究所から、「今となっては判らない」との返事をいただいた。私はおそらく、戦前に上野(あるいはモスクワ)の美術学校かでデザインを学んだ人ではないかと推測している。まさか、粛清されてしまったからふめいという回答だったわけではないことを祈りたい。拉致をはじめとする人権問題には怒りを感じるが、国旗のデザインとしてはこの国旗はすばらしいものと思う。なお、垂直掲揚の場合は星の一端が上を向くよう、18度、星を回転させた国旗を製作して使用する。
(なお、北朝鮮の実態について→ お勧めの一冊『勇者たちへの伝言』 – 増山実の処女小説を絶賛する

孫文奎(ソン・ムンギュ)さんは私と同じ1941年に山口県で生まれた方で、朝鮮大学校教員として在日朝鮮人史を専門とされておられる学者です。

この講演記録を読むに際し、1945年8月15日の終戦の日付のみならず、1948年8月15日にアメリカ軍政地域(北緯38度線以南)に単独で大韓民国(韓国)が樹立されたこと、そして同年9月9日にソ連軍軍制地域(北緯38度線以北)に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立し、以後、朝鮮半島の分断が固定化され今日に至っていること、1950年6月25日に「北」の軍隊が南下して朝鮮戦争(韓国では「6.25動乱」)に至り、スターリンの死去を経て、休戦協定が成立し、今日に至っていること、そして我が国は1965年に日韓基本条約を結んで韓国を半島唯一の合法政権として承認し、北朝鮮とは拉致問題を抱えたまま、依然国交がないことを頭に入れておいてほしい。

講演録のまえに、その講演会を主宰しておられるであろう三橋 修和光大学元学長(1936~)の説明がある。同学長は差別論を専門とされ、他方、「麻原彰晃の三女の入学を拒否した際の学長だったため、責められたこともある」とウィキペディアにはある方。

[特別報告]国旗掲揚問題と在日朝鮮人社会

孫 文奎 朝鮮大学校教員

孫文奎先生の講演記録について

本研究会(不明=吹浦注)に属する私(三橋修氏=吹浦注を含めた何人かは、戦後の対在日朝鮮人管理政策の形成過程を追う研究をしてきた。この研究は、特に、アメリカ軍の視点に注目して、日本政府の動向と併せ総合的に政策決定過程を見直そうとする意図をもって行なわれてきた。そうした研究の過程で、同じようにアメリカ軍の動向に注目して、国旗掲揚事件の研究を進めておられた孫先生の存在を知った。先生は、朝鮮大学校歴史地理学部の先生として後進の指導にあたられつつ、金日成総合大学にも留学されて、研究を続けられてきた。それだけに、先生の研究成果が日本語で発表されることは少なかった。

先生の初期の研究の一部はすでに「国旗を守りぬいた人々/朝鮮民主主義人民共和国国旗掲揚事件の真相」(『統一評論』1978年9月号所収)として日本語で発表されているが、その後の研究成果を是非とも知りたく思い、お願いしたところ、心よく承諾されて、1997年3月5日に私たちの開いた研究会で、先生に講演をしていただくことができた。

講演の内容は多岐にわたったが、本報告書の紙数の関係もあって、三橋の責任において、主として私たちの研究課題と重なる部分を中心にまとめ、先生のご了解を得たものが、以下に掲載するものである。立場の違いを越えて、私たちの研究会で研究成果を発表して下さった孫先生に深くお礼を申し上げたい。

なお、先生のご研究の全容は、1997年に金日成総合大学出版会から出版されたとのことである[1]。

(三橋 修)

朝鮮人連盟の国旗掲揚運動

1945年8月15日の解放直後から、在日本朝鮮人連盟(朝連)の活動綱領のなかに、「朝鮮に独立国家を建設する」ことが提起されています。この綱領を実現する闘いは、本国での運動に呼応して、在日同胞たちが統一国家をうちたてて、それを守る運動として展開されていったのです。しかし、冷戦の激化と朝鮮統一のための「米ソ共同委員会」の決裂で、南北分断へと突き進んでいきます。アメリカの後押しで李承晩大統領による単独政府が樹立されて、それに反対して統一朝鮮を造ろうとする闘いのなかで、朝連の指導のもとに在日同胞が到達したのが、朝鮮民主主義人民共和国の樹立とその支持だったと言えます。

国旗掲揚闘争も、そうした共和国創建を慶祝する運動のなかで起こったのです。

最初に在日同胞たちが慶祝運動を始めたのは、1948年9月14日か15日かと思いますが、朝連東京都中央江東支部とか新宿分会、あるいは荒川の尾久分会とか、東京ではそういう分会単位で集会がたくさん開かれて、共和国の成立過程や政策を浸透させたり、新国家に対する誇りをもって、これを守る決意を固める、という活動が自然発生的に展開されていくなかで、朝連による慶祝運動が展開されていきました。

1948年9月21日に朝連136回中央常任委員会が招集されていますが、そこで在日同胞たちの高まっていく熱意を土台にしながら、慶祝運動を全国的に展開していくという組織的方針を打ち出します。このなかで朝連は、日本という立地条件を考慮して共和国の国際的な権威を高めるという政治的な重要性をもたせて、組織的な慶祝運動を切り開いていこうとした、と考えられます。とりわけこの年の8月15日に、南朝鮮では大韓民国が成立し、連合国最高司令官D・マッカーサーがソウルでの式典に参加しました。

一方、在日同胞の多くは、共和国を支持しました。北朝鮮のピョンヤンに樹立された共和国政府が南北を代表した政権である、という認識が在日同胞のなかに強くあったのです。今は南北に別れてしまっていますけれども、当時は「北」を支持するというのではなくて、共和国は南北を代表していると。例えば南朝鮮地域では間接選挙という形で代表を選出して、共和国政権に加わっています。多くの在日1世は、民族統一をめざす歴史的な成果を強く認識しながら、これが本当の自分たちの統一政権であると考えていたのです。

朝連中央は、共和国創建慶祝指令を各県本部へ出しています。第1次資料では確認できませんが、GHQの民間諜報局(CIS)の文書から、朝連中央から対馬本部へ送った指令の内容が分かります。日付は1948年9月27日となっています。

朝連中央から対馬本部宛の通牒のなかで慶祝大会を組織する件について具体的に触れていますが、かいつまんで言えば、すでに一部の地方では生活権擁護問題と結びつけて、慶祝行事が盛大に行なわれていること。日本当局と交渉して新国旗を作るための布地と物資、酒とビールやもち米などを入手する地方も何カ所も出ていること。第2点は、共和国の強固な土台を築くための闘いとして歩調を合わせるため、中央常任委員会では10月10日に日本全国でいっせいに慶祝行事を開催すると決定したこと。慶祝行事の要領として、10月10日を1つのメドとして開催し、場所も屋内か野外、可能であれば慶祝デモ行進を行なうこと。慶祝行事は外国人、日本の名士、民主団体の代表も参加するように最大限努力をすること。大会では共和国国旗掲揚式を厳粛な雰囲気のなかで開催すること。次に朝連中央本部では各界同胞の有力者を参加させて、中央では「中央慶祝準備委員会」を結成することを決定したから、各県本部では、支部・本部単位の代表からなる慶祝準備委員会を作って、そこで討議して慶祝大会を開くように、との通達を出しました。結局、そういう方向で全国的に慶祝大会が組織的に展開されていったのです。

これについてアメリカ占領軍側では、すでにそういう動きをキャッチして、注目しています。特に9月末頃には占領軍への情報提供者とみられる在日本大韓民国居留民団(民団)の幹部が、神奈川県軍政チームを訪ねて、朝連が10月9日に大々的な慶祝行事をもって、国旗を掲揚して、自動車のデモ行進を行なう計画をたてていると密告した事実が、GHQの民政局(GS)の文書に載っています。この資料をみれば分かるように、米第8軍軍政本部の方でも在日朝鮮人のこうした動きを的確に把握していたとのことです。

この時期に、朝連各支部では新国旗を掲げて慶祝大会が盛んに行なわれています。『朝連中央時報』や『解放新聞』(朝連の機関紙)でその内容の記事がたくさん紹介されています。そのなかで在日同胞たちは国旗をどのように取り扱ったのでしょうか。

それまで在日同胞は、旧朝鮮国旗として「太極旗」を使っていました。しかし、共和国の創建とともに新しく制定された共和国の国旗を正しく認識させ普及させていく運動が広がっていきました。1世のなかには「太極旗」という旧朝鮮国旗に対する愛着という問題があったので、朝連では新国旗をどのように認識させていけばいいかという課題に取り組んでいたのです。

そのなかで私が1番感激したのは、1948年9月22、23日に朝連の愛知県本部で行なわれた在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の第5回定期大会です。そこでは従来の「太極旗」がそのまま掲げられていました。ところが代議員のなかから、共和国が創建されたのに、われわれは共和国を支持するという立場なので、古い国旗をそのまま掲揚するのはおかしいという意見が出されて、討議の結果、古い国旗を下ろして新しい国旗を掲げるという動議が提出されました。それが満場一致で採択されて次の日から共和国国旗をひるがえすことになったのです。

このとき、愛知県民青本部の許 太準という青年が、「新しい国旗を掲げて」という感動的な詩を書いています。新しい国旗というものはどういう国旗なのか、愛国者たちが血で戦いとった国旗だから、これを守っていこうという内容の詩で、それを即席で発表して参加者に深い感銘を与えたのです。

それ以外でも、運動会とか、民族教育の場においても、共和国の国旗が盛んに広げられるようになります。1つの例としては、1948年10月4日、東京朝鮮中学校の第1回卒業式と東京朝鮮高等学校の入学式に国旗掲揚式を行なったことです。また、学校創立2周年記念式と同時に共和国創建樹立慶祝大会をその一環として盛大に開催されて、運動場に国旗が掲げられました。その運動会と卒業式に国旗が掲揚されている写真資料が残っています。このように在日朝鮮人、朝連の活動のなかで、新しい国旗を掲げて愛国運動が力強く展開されていったということです。

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