1949年1月1日、連合軍最高司令官マッカーサー元帥は、「国旗の無制限掲揚許可に関する総司令部覚え書き」を発し、これによって、日本国民はいつでも自由に「日の丸」を掲げ、使用することが出来るようになった。しかし、国民の反応は、このときまでに愛国心への疑念を高め、自己の日本人としてのアイデンティティを表に出すことを遠慮するような萎縮型に変わっていた。マッカーサーは、の覚書で、これからは「平和の象徴」として「日の丸」が「日本国民の一人ひとりを奮い立たせる、輝く導きの光として翻らんことを心から念願」したのであったが、日本国民は「日の丸」の使用や掲揚に対して、日本人はすっかり消極的になり、それが今日にまで及んでいる。
わずかな例外というべきは、政府公官庁や大企業、大団体、神社などが常時、国旗を掲揚し、祝祭日には地域を護る交番や地域に密着したバスや市電といった交通機関、そして全国紙では産経新聞が題字横に「日の丸」を掲載しているのみだ。
1950年2月に行われた朝日新聞の全国世論調査によれば、当時、国旗を持っている家は73%、その中で祝祭日に「日の丸」を掲げる人は30%であった。さらに、国旗を掲げない理由を質すと、「国旗を出すと世間から軍国主義者のように思われるから出さない」「誰も国旗を出せといってこないし、出さなくとも誰からも文句がこないから」といった回答が多かったという(高橋司朗『検証戦後教育』モラロジー研究所)。残念ながら最近の統計はないようだが、一定の地域では地域を挙げて、「日の丸」の掲揚運動で成果を挙げているところが出てきたことは以前、小欄でお報せした。