日の丸のデザインにつきましては、大別して、これまで五つの種類のものがございました。太政官布告第五十七号、同じく六百五十一号、そして仮に永井一正型と申しましょう、それから日本航空型、全日空型と申し上げておきます。この五つでございます。
今回の法案は、そのうちの六百五十一号型の日の丸が、デザイン上日本人に一番なじんでいるものとして提案されているものと私は理解しております。賛成しております。
いま少し詳しく申し上げますと、御承知のように、一八七〇年、明治三年、日の丸について二つの太政官布告が出されました。まず、一月に商船に掲ぐべき国旗としての太政官布告第五十七号が出されまして、この布告は、実寸で旗のデザインを、つまり何丈何尺何寸という数字でございますが、それで旗を表記しております。
これを幾何学的に整理いたしますと、旗面の縦横の比率でございますね、これは言葉がないもので、私は縦横比という表現で、自分でつくった言葉ですが、縦横比と表現させていただきますが、これが七対十。そして、何と円はさお側の、仮にこっちがさおとしますと、さお側に横の百分の一だけずらすという、これは各国旗の中でも大変不思議な指定と申し上げるほかありませんが、それで円の直径が縦の五分の三というものを決めております。これは明治の人の一つの美学だったのかもしれません。ちょっと解釈に無理があるかもしれませんが。
次いで、この明治三年の十月、今度は軍船で用いる国旗についての太政官布告第六百五十一号が出ました。これは、縦横比は今度は二対三で、円の中心は対角線の交点、つまり旗面の中心、円の直径は縦の五分の三というものでございます。
今、簡単に数字で申し上げましたので若干おわかりにくかったかと思いますが、要するに二つの太政官布告で異なるデザインの日の丸が誕生したのでございます。このため、以後デザイン上の混乱が続き、今日に至っております。
この間、国旗の法制化への動きは少なくとも四回あったと言えましょう。
最初の具体的な動きは、昭和の初め昭和六年、一九三一年の二月、当時本院の議員でありました石原善三郎さんという方が大日本国旗法案というものを提出しております。衆議院は三月二十五日、これを可決いたしました。このとき石原議員は、前年六月、文部省から内閣に国旗の制式について問い合わせたのに対し、国旗の寸法は差し当たり太政官布告の五十七号に定むるものの比率に準拠することを妥当と認むるとしたが、国定教科書では日の丸の縦横比を二対三にしている、国旗のデザインが法制上あいまいになっているからだということを理由にして、デザインの明確化を求めたことを法制化の意義として述べておるわけでございます。
この石原議員の提案に成る法案の日の丸は、太政官布告六百五十一号と同じものであったわけでございます。しかし、この年の四月、浜口内閣が総辞職し、九月には満州事変が勃発するなど、激動の内外情勢の中でこの国旗法案は審議未了、廃案となりました。そして、やがて衆議院は解散、この議員は大阪の選挙区で落選してしまいまして、この国旗法はとんざしたわけでございます。
(つづく)