オデッサ(南部ウクライナ、人口約100万の港湾都市)でウクライナの暫定政権に反対する運動が起き、40人もが亡くなったという報道が流れている。それによると、ウクライナ内務省は4日までに、騒乱を煽動した疑いなどで170人以上を拘束した。大多数はロシア国籍の者と隣国モルドバの親露派地域「沿ドニエストル共和国」出身の者だという。
オデッサの市旗
黒海最大の港街オデッサ。1905年5月、日露戦争でバルチック艦隊が日本海海戦(5月27日)に壊滅した直後、6月14日、水兵の反乱による「戦艦ポチョムキン事件」が起こったことと、それを描いた映画「戦艦ポチョムキン」でつとに知られている。
あの映画の軍隊に推されて母の手が離れたため「乳母車に乗せた赤ん坊」が長い階段を落ちるシーンは忘れられない。有名な大階段での虐殺は史実にはないとされるが、この映画でまるで実話のように世界に誤解されているままだ。
私は数回訪れている。初めては1968年の冬、急に一人でソ連の船を見に行くことになったときのことだった。1925年に製作された映画だったが、フィルムの散逸などにより、これが日本で公開されたのが前年。オデッサにいる間中、あの映画の中にいるかのような錯覚を覚えた。
オデッサはソ連(当時)の中では格段に暖かい気候だった。翌年夏には、大森実主宰の「太平洋大学」の参加者47人を引率してこの港を訪ねた。ナポリ、ピラウス(ギリシャ)、イスタンブール、ヴァルナ(ブルガリア)、ヤルタ(ウクライナ)をソ連船(バイカル号級)で旅をし、同じタイプのソ連船を乗り換えてオデッサに着くという旅だった。オデッサの市長に飛鳥田横浜市長(当時)からのメッセージを届け、歓迎された。そこで、オデッサ側はオデッサ市の歌をすばらしい合唱で披露した。
拍手していると、お返しに横浜の歌をとせがまれ、困惑した。当時は、森鴎外作詞の名歌「横浜市歌」(南 )を知る者がいなかった。
この歌、地方自治体の歌では、わが故郷・秋田の県民歌(成田為三作曲、石井歓のカンタータ「大いなる秋田」にも収録)、山形県民歌(昭和天皇の短歌)、これさえ歌えば長野も松本もみんなで仲良くなるという「信濃の国」(浅井 作詞、北村作曲)、そして京都のわらべうた「通り名の数え歌」とともに、4つの名歌であると、今では確信している(詳細は拙著『歌い継ぎたい日本の歌 愛唱歌とっておきの話』海竜社)。それぞれの曲をYou Tubeで聴くことが出来るので、是非、聴き比べてみていただきたい。
、そこで「赤とんぼ」でも「ふるさと」でも歌えばよかったのかもしれないが、団長が“真面目なタディ”なもので、みんなが知っている横浜の歌とばかり思案をめぐらせ、急遽、なんと、いしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」を斉唱した。これも名曲かもしれないが、正直なところ、結果は一同、なんとも準備不足で「負けた」という思いだった。
港に通じるオデッサの有名な階段。
映画「戦艦ポチョムキン」の1シーン
親ロシア派と暫定政権とが衝突した市の中心部はよく憶えている。100年前の「戦艦ポチョムキン事件」は、これに先立つサンクトペテルブルクの冬宮前広場での「血の日曜日事件」(1905年1月9日)と並んで、第一次ロシア革命と言われ、ロマノフ王朝を倒した1917年の革命の起爆剤になった。
今回のオデッサでの混乱をロシアが裏で糸を引いているようなことが出てくると、これはとんでもない事態に拡大する可能性なしとしない憂慮を覚える。関係者の自重を期待する。