バングラデシュのハシナ首相を迎えて

拓殖大学客員教授として答案を採点して、「講義」と「国旗」の「義」と「旗」を書き違える学生が少なくないことに、愕然とし、273枚の答案用紙の誤字を全部赤で訂正して返した。これはPCの普及がなした結末か。

同様に、これはこの大学に限らないのだが、Bangladeshの日本語での表記を「バングラデッシュ」とする人がなんと多いことか。”ベンガル人の国”の意で「バングラデシュ」でいい。

閑話休題。そのバングラデシュから5月末、シェイク・ハシナ・ワゼド首相が公賓として来日し、26日には安倍首相との首脳会談も行われた。


永田町に掲げられたハシナ首相歓迎の友好の旗。

衆議院第一議員会館の受付には、来訪者からの質問に答えるべく、会館前に国旗が並んでいることにつき説明パネルが用意されていた。国会事務局に拍手!

バングラデシュのハシナ首相

ハシナ首相は、同国の二大政党のひとつであるアワミ連盟(AL)の党首であり、バングラデシュ建国の父とされるシェイク・ムジブル・ラーマン首相(福田内閣時に来日。私がプロデュースして恩師・橋本祐子先生が司会)の長女。収監されてラホールの獄から戻った時、私は国際赤十字を代表してダッカ空港に出迎えて以来、私(当時、同国で国際赤十字駐在代表、仮の日本人会長、外国人会連絡協議会長)は何度かご尊父にはお目にかかる機会があった。早川崇日本バングラデシュ協会長の取り計らいで、晴海から串本まで船で旅行したこともある。また、国旗についても強く意見したこともあり、その後、国旗のデザインは微調整された。

1975年にクーデタで父をはじめ一家が暗殺された際に、ハシナさんはた

またまイギリスにいて被害をまぬがれた。その後、インドで亡命生活を送り、6年後帰国を果たし、早々にALの党首となった。

しかし、政情不安は基本的に今日まで変わっていない。このころの大統領はジアウル・ラーマン。大平内閣時に来日。同じく私がプロデュースし、畏友・高橋重宏(後の社会事業大学学長)夫人の正子さんが司会した。1971年3月にパキスタン軍が東パキスタン(現バングラデシュ)の騒乱を抑えたとき、最後に「バングラデシュの独立万歳!」と叫んで地下に潜行した「もう一人の建国の父」。

この当時、そして現在もバングラデシュの政局は、率直に言わせてもらうならめちゃくちゃ激しいが、世界の政治動向から言えば、失礼ながら所詮は「コップの中の嵐」。あまり政策の違わない政党や政治家が汚職を“職務”のごとく行い、政治家と軍とが複雑に絡み、利権争いのしのぎを削っていた。加えて、政権の支持基盤の一つである軍隊はその政治の影響を受けて統制が乱れ、その後も、81年5月、最大の港町チッタゴンでクーデタが起こり,ジアウル・ラーマン大統領は暗殺された。

反乱軍はすぐ鎮圧され,大統領代行となったサッタルが11月の大統領選を制したが、82年3月,再び軍がクーデタを起こし,陸軍参謀長フセイン・エルシャド(1930~)中将が実権を掌握した。エルシャドは海部内閣時代に来日(私も招宴にお招きいただいた)してもいる。

さて、「コップの中」をもう少し覗いてみよう。

この後、ハシナ党首はアワミ連盟を率いてエルシャド政権に対する反対運動を展開しては、しばしば軟禁された。しかし、1990年にエルシャド大統領は学生運動を主体とした民主化勢力によって打倒され、憲法改正によって、大統領を元首とする議院内閣制度が確立した。

その後も、アワミ連盟(AL)とジアウル・ラーマンを祖とするバングラデシュ民族主義党(BNP)の2大政党が交互に政権を担ってきた。が、政権交代ごとに、人事交代はもとより、上から下まで相手のやってきたことのあら捜しをし、汚職を糾弾し、これが、「政治的習慣」化してきており、今日までバングラデシュの政情混迷の大きな要因となっている。

1981年のジアウル・ラーマン大統領が暗殺された後は、カレダ・ジア夫人が総裁に就任した。ALとBNPはそれぞれ党の創建者の娘(ハシナ)と夫人(ジア)の世襲間の争いである。

さすがに、この混迷には国民もうんざりし、機を見たノーベル平和賞受賞者であるグラミン銀行のムハマド・ユヌス総裁が2008年総選挙実施にあたり、新党立ち上げを画策したが実現しなかった。ユヌスとも私は親しく話したことがあるが、この人の弱点は、1971年前後のあの内戦期に海外に滞在していたこと。つまり私がこの国にいた悲惨な時代にユヌスはアメリカ暮らしをしていたことが政治的には今一つ支持を伸ばせないでいる。

2006年10月、2001年より国政を担っていたBNP政権が任期満了で退陣したのちも、非政党選挙管理内閣の発足で、選挙管理委員会を支援・監視することにより、国会選挙の公正性を担保することを目的として活動したが、人事などを巡り政党間の対立が激化し、国内の治安が悪化したため、イアディ・ウディン大統領は2007年1月11日、非常事態宣言を発令、夜間の外出を禁止した。そして軍の支援を受けた、ファクルッディン・アーメド元中央銀行総裁を首班とする非政党選挙内閣が発足した。

ファクルッディンは、政治改革を断、汚職の一掃を強行し、カレダ・ジアBN、シェイク・ハシナALの両総裁も逮捕された。議会選挙がその2年後の2008年12月に実施され、地滑り的勝利によりALのハシナ総裁がまた首相に返り咲いた。

ところで、2014年5月末のハシナ首相の訪日で、安倍首相はバングラデシュでの石炭による火力発電所とその関連施設整備の費用として、総額3800億円という大きな円借款の供与を申し入れた。

同国はヒマラヤに発する大きな河川の河口が複数あり、豊かな水田が広がるが、水力発電は地形的にほとんど無理。そこで、今回の円借款では、従来型より発電効率が4割高い「超々臨界圧」といわれる最先端技術が採用されることになっている。また、石炭輸入の円滑化のために港湾や送電線などの整備も含め、総工費は約4500億円に及ぶ見通し。

官民によるこの技術と資金の提供で、同国のCO2は削減され、安定的電力供給が行われるようになると期待されている。

世界最貧国として挙げられてきたバングラデシュだが、安い労働力を求めて先進工業国や東南アジア諸国からの工場進出が増え、市街地は見まごうばかりとか。一昨年、40年前の拙著『血と泥と ― バングラデシュ独立の悲劇』がNHKの海外放送で連続放送され、ベンガル語で出版されるということもあったので、機会を見つけ、再訪したいと思っている。

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