紙面には、かの郭沫若の孫・郭尤(かく・まこと)朝日新聞写真部員が我が家に来てくださって撮影した写真が3枚も出ています。
2014年9月3日付朝日新聞に私への大きなインタビュー記事が掲載されました。遠くはカナダのトロント市に住む方、国内では北海道から九州・沖縄まで、多くの友人から感想や激励のメール・電話をいただきました。
ただ、一部の方から「知り合いから聞いたがキミが朝日に出ているとか。コンビニに行ったけれども新聞が売り切れていた」といった声も寄せられました。そこで長文ですのが、分けてご紹介したいと思います。
見出しは「東京五輪の哲学がほしい」。リードは省略させていただきます。インタビューアは大久保真紀編集委員。
―50年前の東京五輪では組織委員会の職員だったんですね。
「大学生だった21歳のときに最年少で、国旗担当職員として採用されました。58年に東京で開かれた第3回アジア大会では、表彰式で中華民国(現在の台湾)の国旗を上下逆さまに揚げてしまい大問題になりました。2度と問題が起きないようにと国旗に通じた人を探したようです」
―国旗担当とは?
「参加が予想された100余りの国・地域の旗の仕様書を作り、大会期間中の開会式や表彰式で、上下や裏表などを間違わずに掲揚することです。国旗にはさまざまなものが込められています。その国の人たちの思いや、歴史、民族、国の位置や形、宗教、政治、産業、独立までの苦しみ、未来への目標などです。万が一にも問題があっては困ると、細心の注意を払いました」
「五輪で掲揚される国旗は『同じ大きさに』と五輪憲章にあります。しかし、各国の国旗は実に多様です。たとえば縦横比が2対3の国旗は中国やフランスなど7割足らず。アメリカは1対1・9、イギリスは1対2です。デフォルメした見本を参加国のオリンピック委員会に送って承認を求め、補正もしました」
「一番苦労したのは、実は日本です。オリンピック委員会をはじめ、外務省、文部省、首相官邸、国会にも尋ねましたが、どこも答えてくれませんでした。そこで、かつての海軍規則にあった『縦横比2対3、日の丸の直径は縦の5分の3、日の丸の中心は旗の中心』に準拠しました。『紅』とされていただけの色については、一般家庭から500枚の日の丸を集めて、日本人好みの色を分析して決めました。口紅の色を研究していた資生堂研究所や日本色彩研究所に協力していただきました」
―特に印象に残ることは?
「10月10日の開会式前日は夕方から土砂降りの雨。開会式開催は絶望的だと、私たち組織委の若手はやけ酒を飲みました。確か午前3時ごろです。高田馬場で解散というとき、見上げると、満天に星空が広がっている。慌てて午前6時の集合時間に駆けつけました。『世界中の青空を集めたような快晴』とNHKのアナウンサーが実況した空になりました。私は開会式の入場門に立って、選手団の国旗を点検しました。ホンジュラスの国旗が逆さまになっていたので急いで直しました」
「戦争に負けて19年。あのころの日本人は自信がなかった。国民的な女優の高峰秀子さんが『何百億円もかかる五輪をするのは時期尚早』と発言するなど反対もありました。しかし、「戦後の復興を世界に示す」という目標のもとで、どの分野でも日本中でみなが一丸となって取り組み、64年五輪は見事に日本の国際社会への復帰の起爆剤となりました」
「しかも、日本人の意識や考え方を含めて国内に様々な変化をもたらしました。私もそれまで外国人とはほとんど接したことがありませんでした。最初の異文化体験は選手村のトイレ。水洗便所では便器の高さが高くて足が届かなかったり、背伸びをしたり……。ナイフとフォークの使い方もわからず、マナー教室にも2回通いました。また、五輪後のパラリンピックで多くの日本人はある意味ショックを受けました。言い方は悪いですが、それまで障害者は家か病院に押し込められがちで、街で車いすの人に会うことはありませんでしたから。美智子妃殿下が競技会場にみえると聞いて、美容院に行きたいと言い出す外国人選手がいた。恥ずかしいですが、障害者も健常者と変わらないことを、私自身初めて痛感したのです」