1911年の辛亥革命後、「青天白日滿地紅旗(以下、青天白日旗)」への変更が、当時の政争とも絡み、激しい抗争となり、結局、翌12年、「五色旗」が国旗として採択されました。
中華民国建国後、孫文臨時大総統(1866~1925)が「青天白日旗」を国旗として採用しようとしたのですが、臨時参議院(議会)の賛同を得られず、清朝の海軍で使用されていた旗である「五色旗」を正式な国旗とし、「青天白日旗」を海軍軍旗として採択したのです。
しかし、袁世凱が孫文らを北京から追放して権力を握ると、これに反発する勢力の人たちが、「五色旗」に対しても反発しました。孫文らは、北京政府に対抗して1919年に広東で中国国民党を結成し、その際に「青天白日」のマークを党章としました。
1924年1月20日には、中国共産党との第一次国共合作が成立し、袁世凱ら軍閥への対抗する基礎を固めました。孫文はその年の3月12日、北京で亡くなりましたが、国民党はその年に広州で国民政府を樹立し、「青天白日旗」を採択しました。このため、中華民国には「五色旗」と「青天白日旗」の2つの国旗が並存する事態になりました。孫文を継いだ蒋介石は、1928年に「青天白日旗」を中華民国の国旗として採択しました。
同年、上海で発生した「五・三〇事件」を背景にして、国民党の当時の指導者の一人・汪兆銘を主席とする広東国民政府が樹立され、翌26年には、北伐を開始しました。国共合作は翌年、蒋介石の「上海クーデター」により崩壊したのですが、北伐は継続され、1928年6月9日に蒋介石は北京に入城し、北京政府を倒すことに成功したのでした。
これによって、蒋介石は南京を首都とする国民政府を樹立し、全国を統一し、「青天白日旗」を唯一の国旗として全国に掲げて「二旗併揚」の状態は解消しました。しかし、現在も台湾全島では「青天白日旗」が、大陸では「五星紅旗」が掲揚され、見方によっては未だ中国の「二旗併揚」の状況が続いているということも出来ましょう。また、台湾の独立を考えている人たちはさらに別の旗を「台湾共和国」の「国旗」として用いています。
ところで、五色にいささかややこしい説明があります。
袁世凱の時代には、赤は漢族、黄は満州族、青はモンゴル族、白はウイグル族、黒はチベット族を著し、全体で五族共和を意味するとされました。しかし、この「五色旗」はもとはといえば、清朝に由来するため、後に満州国の国旗に応用され「新五色旗」となりました。1933年2月24日の国務院佈告第3号「國旗ノ意義解釈ニ関スル件」には、青は東方、紅は南方、白は西方、黒は北方、黄は中央を表し、中央行政をもって四方を統御するという意味であると記されています。また、満州国国務院総務庁情報処が発行した『満洲国国旗考』には、黄色は中央の土であり万物を化育し、四方統御の王者の仁徳を意味し、融和・博愛・大同・親善を表す。赤は火と南方を意味し、誠実真摯・熱情などの諸徳を表す。青は木と東方を意味し、青春・神聖などを表す。白は金と西方を意味し、平和・純真公儀などを表す。黒は水と北方を意味し、堅忍・不抜の諸徳などを表す、と記されています。また、ほかにも、五色は「黄、紅、青、白、黒」で「日・満・漢・朝・蒙の五族」協和を象徴させたものですと記述したものもあります。
孫文
ところで、「五色旗」で思い出すのは、「仏旗」(フランスの旗ではなく仏教の旗)という「五色旗」です。これはかねてより多くの仏教国で掲げられていましたが、世界仏教徒連盟(WFB)が結成され、スリランカでの第一回世界仏教徒会議が開かれた1950年に、正式に「国際仏旗」として採択されたものです。さらに1954年、福井県の永平寺で開かれた第二回全日本仏教徒会議でも「仏旗」として採択されました。
辰年の龍の旗の話をしながら、清国の国旗というこんな大事なことに触れなかったのは国旗解説の歴史的視点に欠けていたとお詫びするほかありません。
なお、清国の成立から「黄龍旗」の制定事情、辛亥革命以降の「五色旗」と「青天白日旗」を巡る政治的抗争については、東京大学の小野寺四郎先生が多数の論文を発表していますので、さらに詳しいことはそれに拠ってください。