ルーマニア – 紋章を切り抜いた国旗の物語(中編)


1989年以降、現在のルーマニア国旗

冷戦の終結で唯一、武力を用いた革命

話を20年前に戻そう。1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊し、それと前後して東ヨーロッパ各国の共産党政権が民主化ドミノにさらされて次々と倒れたとの情報がルーマニアにも伝わってきた。民主化を求める気運が高くなるのは当然の事態であった。これに対してチャウシェスクは親衛勢力と情報の統制による弾圧を一層強化し、一切の妥協を拒否した。

1989年12月のルーマニア革命は、西部に位置してハンガリー(マジャール)人居住者の多い都市ティミショアラから始まった。ハンガリー改革派教会の牧師テケーシュ・ラースローへの国外退去処分に対するマハンガリー系市民による抗議デモが発端だった。それが武力対立に発展し、旬日を待たずして、クリスマスの祝日に革命が帰結した。

チャウシェスク大統領はこれが大きな流れとなることを阻止しようと、デモに対する武力鎮圧を下命、これに反対した国防相のワシーリ・ミリャが突然、銃撃により、自室で死体となって発見されるという事件が起こった。そしてこれが、国軍を権力から離反させた。軍は民主化勢力への加担に転じ、各地で治安部隊との武力衝突に陥った。だが、救国戦線を名乗る組織を中心とする革命勢力は1週間で全土を制圧し、25日、チャウシェスクは逮捕され、即決裁判で死刑の判決を受け、即日、エレナと共に処刑された。この革命の真相については、諸説あり、未だ全容は解明されていないので、真相は関係の専門書の分析に譲るが、これもまた地理的、歴史的にはいかにもルーマニアらしい独裁者の姿でありその最期であったように思う。

当時を知る世代は、国旗の中央の国章を切り抜いた旗を掲げて目抜き通りを行進する市民たち、市街戦、そしてヘリコプターで大統領官邸を脱出する独裁者夫妻、即決裁判で判決が下され、その日のうちに夫妻の遺体の映像がメディアを通じて世界に流された強烈な印象を今日まで持ち続いているのではないか。

あれから20年を過ぎ、昨年末、国民は、あの時と同じ、国章を切り抜いた青黄赤の縦三色旗を再び担ぎ出して、89年革命の思いへの復帰を今の政治当局に確認させようとしたのであった。それは革命へ仮託した各自の想いが、その後のルーマニアの政治や経済の混迷に抗議するという意思を表した行動ではあるまいか。

ちなみに、国旗は公式の縦横比も含めてチャドの国旗と酷似している。双方ともフランス三色旗の影響でこうなったものだが、1989年の民主化までルーマニアの国旗には、中央に共産党政権らしい赤い星、麦の穂、そして欧州では珍しい産油国であることを示す油井から成る国章があしらわれており、両国の国旗は容易に区別できたのであった。

知られざる国ルーマニア

わが国においてルーマニアは決してよく知られた国ではない。欧州によく旅行する私の友人などでも、この国を訪問したことがないどころか、その首都ブカレシュティ(英語ではブカレスト)の名を知る人さえ案外少ない。これは、同じ東欧でもワルシャワ、ブダペスト、プラハとは比べものにならない低い知名度である。むしろ、「吸血鬼ドラキュラ」(モデルは15世紀のヴラド串刺公=ワラキア公ヴラド・ツェペシュ)のほうが、首都の名よりははるかに知られている。中には、世代や興味によって、前述のナディア・コマネチ、K-1で活躍中のダニエル・ギタの名を挙げたり、ワインや料理の蘊蓄を語る人もいる。日本外務省のホームページでも「1989年チャウシェスク独裁政権が打倒され、夫婦で銃殺刑にされたことが記憶に新しいが、それ以外では馴染みがうすい国であろう」となっているほどだ。

医療福祉関係者には、チャウシェスク時代の人口急増政策の結果、ルーマニアの人口はバルカン半島随一となっているが,先天性エイズ児童が多いとか、経済不況のあおりで親が子供を手放さざるを得ないといったケースが続出し、大勢のストリート・チルドレンが生まれ、孤児院はいずれも超満員という状況となったといった報道について、「記憶にある」という人も少なくない。これらはいずれもルーマニアに関わる真実ではあるが、そのイメージだけでは、到底、この国の全貌は理解できない。

今やルーマニアは、2004年にNATO(北大西洋条約機構)に加盟し、2007年にはEU(欧州共同体)の一員となった。しかも、イラクやアフガニスタンへの実戦部隊の派遣を含めて国際社会において積極的に応分の役割と責任を果たそうとしている国なのである。

「望郷のバラード」の故郷

日本において、ルーマニアに関心をもつようになった意外な起点が、バイオリニスト天満敦子の演奏する「望郷のバラード」であるという人は結構多い。年間160回ものコンサートをこなすというこの「売れっ子」演奏家は毎回、必ずこの曲を奏でる。この曲自体、日本的とさえ思わせる哀切の叙情がたっぷりと込められたもので、これを聴かないうちは帰らないというファンが大勢いる。ここまでに至った経緯を、天満のCD「Balada」の解説から紹介する。

演奏家としての天満の育ての親ともいうべき中野プロデューサーの筆になる。

19世紀末、29歳の若さで薄倖の生涯を閉じたルーマニアの鬼才プリアン・ポルムベスクの作になる《望郷のバラード》。愛国者であったポルムベスクは、オーストリア=ハンガリー帝国に支配されていた母国の独立運動に参加して逮捕投獄の憂き目に遭う。曲は獄中で故郷を偲び、恋人に想いを馳せながら書き上げた哀切のメロディーであり、ルーマニアでは誰知らぬもののない懐かしの名曲であるが、エクゾチズム濃厚の故であろうか、国外では知られること少ない文字通りの“秘曲”であった。

天満敦子に《望郷のバラード》の譜面を渡し、「広く日本に」と依頼したのは、当時外務省東欧課長の職にあった外交官・岡田眞樹である。岡田は数年前、ウィーンの日本大使館在勤中、郊外のレストランで哀愁に満ちた音楽を奏でる亡命ルーマニア人楽人と出会い、感動して親交を結ぶ。イオン・ヴェレシュと名乗る亡命楽人は、8年後にスイスで再会を果たした別れぎわ、「この曲を、日本に紹介してくれるヴァイオリニストを探して」と、黄ばんだ1枚の楽譜を岡田に差しだした。ヴェレシュがチャウシェスク共産主義政権の圧制を逃れるべく、夜陰にまぎれて国境を越えたとき、ヴァイオリンとともに携えてきた愛奏の譜面であった。そして岡田が、1992年の初夏、天満敦子というヴァイオリン奏者の存在を知り、演奏を依頼した。

1993年12月16日、横浜市青葉台のフィリアホールで初演されたが、「ホール内には鳴咽の声が満ち、ルーマニアの外交官夫妻、岡田氏夫妻もじっと涙を押さえておられた」(中野)という状況であった。「この夜を境に、天満敦子は一挙に楽壇の脚光を浴びる存在になった」(同)。ちなみに、岡田は1973年入省の現役外交官。但し、現在は畜産産業振興機構に理事として出向中。2009年春までは特命全権大使としてアフガニスタン支援調整担当兼アフガニスタン兼国際貿易・経済担当であり、それまでに駐デンマーク大使、大臣官房広報文化交流部長、在フランクフルト総領事などを歴任している。ヴェレシュからこの曲を託されたのは1985年、東欧課長の時であった。

「望郷のバラード」演奏の話はまた、作家・高樹のぶ子が朝日新聞に連載した『百年の預言』の下敷きになった。朝日新聞社から刊行されたこの小説はあくまでもフィクションであり、「百年前の楽譜に秘められた謎とは・ウィーンを濡らす恋」(上巻)、「永遠に流れゆく生と死のメロディー・ルーマニアを焦がす性の炎」(下巻)とあるように、外交官・「真賀木」とバイオリニスト「悦子」とのすれ違いの多い恋愛の進行にはらはらさせられつつ、チャウシェスク独裁政権下のルーマニアから逃れてきた作曲家でバオイリニストの「センデス」の携る楽譜をめぐる謎解きと、1989年12月のルーマニア革命に至る激動とが巧みに織り交ぜられている作品だ。しかも、さすがは芥川賞作家というべき筆致で、ルーマニアの政治・経済・価値観にまで興味をそそられる。

ショパンの一連のマズルカやバラード、シベリウスの交響詩「フィンランディア」、スメタナの交響詩「わが祖国」、コダーイのマジャール語による合唱曲や歌劇「ハーリ・ヤーノシュ」を聴かずして、フィンランド、チェコ、ハンガリー、ポーランドが語れないように、天満の演奏による「望郷のバラード」は必聴の演奏であり、高樹の『百年の預言』は4半世紀前のルーマニアを手軽に理解するには格好の小説といっていい。

民族・宗教・歴史の混在する国

ルーマニアは地政学的位置から来る民族、宗教、言語、文化など、簡単には説明ができないほどさまざまなファクターが混在し、輻輳している国である。

国土はバルカン半島北東部の一角を占め、東は黒海に面している。沿岸の北はウクライナに、南岸はブルガリアと続き、ほかにセルビア、ハンガリー、モルドバと直接国境を接している。国土の面積は約23万8千キロ。わが国の本州とほぼ同じ広さであり、ウクライナ、ポーランドに次ぎ東欧では3番目に広い面積を持つ国である。

19世紀後半になって、ワラキアとモルダヴィアが連合公国としての合体を進め、ルーマニア公国を形成し,1877年5月9日にオスマン・トルコからの独立を宣言した。露土戦争(1878)の講和条約であるサン・ステファノ条約と、同年、ビスマルクが主導し、露土戦争後の新秩序を決めたベルリン会議で、この国はルーマニア王国として列強に承認された。このとき、カルロ1世(1839~1914)が即位(ルーマニア公としての在位は1866~81、次いでルーマニア国王として1981~1914)した。

カルロ1世は血統的にはドイツ人であり、超然として国民に臨んだ。また、自ら制定した憲法で男系男子による王位の継承と、王がルーマニア人と結婚することを禁じた。しかし、自らは必ずしも家庭的幸福に恵まれなかったこともあり、王家は欧州の各王室と複雑かつ親密な婚姻・友好関係を築いた。これによって、晩年までのかなり長期間、独裁的治世を続け、独立国としての基礎をつくった。

青黄赤の縦三色旗が採択されたのはそのカルロ1世が即位してルーマニアが建国されたときである。ローマの末裔と称し、ラテン系であることから「盟主」フランスの三色旗を基本に、白を黄色に換えたものである。

1948年、ソ連の絶大な影響力の下に国家体制が激変し、人民共和国となった。国旗の中央に社会主義国家であることを象徴するような紋章が付けられた。カルパチア地方の豊かな森林と欧州の東端にあることから日の出、そして当時の欧州では珍しい産油国であることから油井が紋章には描かれた。52年まではリボンの文字がR.P.R.(ルーマニア人民共和国の略)であった。52年に紋章の上に赤い星が加えられ、いよいよ社会主義国の国旗らしさが強調された。これはソ連の国旗が黄色で縁取られた赤い星であったことの影響で、当時は、アルバニア、ユーゴスラビア、ハンガリー(1956年のハンガリー革命後撤去)、ブルガリアなどが赤い星の付いた国旗だった。

ちなみにアジアでは北朝鮮のみが赤い星で、モンゴル、中国、ベトナムの国旗は黄色い星であり、今のモンゴルの国旗は社会主義政権崩壊後、星が撤去されたものだ。

話をカルロ1世に戻そう。

その権勢の象徴ともいうべきなのが、8年の歳月をかけて1875年にカルパチャ山脈の山里というべきシナヤに建立した夏の離宮ペーシュ城。昨今、観光ブームとでもいうべき人気スポットとなり、欧州各地からはもとより、日本からの観光客も絶えない。

第一次世界大戦でルーマニアは連合国側で参戦して勝利を得、これにより、崩壊したオーストリア・ハンガリー帝国からトランシルバニアを獲得し、ハンガリー系の国民を多数抱え込むこととなった。しかし、これはハンガリーとの領土問題の発端であり、係争課題として今日まで尾を引いている。また、この戦争で北東部のベッサラビアをも回復した。

第2次世界大戦では最初は枢軸国側に与して参戦した。これに対し、ソ連は東部地域北ブコビナとベッサラビアを要求、ドイツは北トランシルバニアをハンガリーに割譲させた。全権力を握っていたはずでありながら、こうした領土の喪失になすすべのなかったカロル2世は、1940年の軍部により退位させられ、王位を息子で前国王のミハイ譲り、実権をイオン・アントネスク将軍に委譲した。ルーマニアの将兵たちはドイツの軍隊と肩を並べてクリミア半島に攻め入り、ヴォルガ川に迫り、スターリングラードを囲んだ。しかし、その後戦況は大きく動き、ドイツとソ連の狭間でルーマニアの立場は大きく揺らいだ。

だが、戦局は激変した。スターリングラードを落とせなかったドイツ軍は退却を余儀なくされ、今度は、ソ連が東欧に迫った。これによりルーマニアはドイツに反旗を翻さざるをえなくなり、先端部隊はドイツ国境内ベルリンの近くまで攻め込んだ。

しかし、終戦はこの国を一層混乱させた。ルーマニアは事実上、敗戦国扱いとなり、一時は奪い返していたブコビナ北部とベッサラビアをソ連に併合され、ソ連軍の強い圧力の下、王政は廃止に追い込まれ、1947年12月30日に人民政府、共産党の一党独裁によるルーマニア人民共和国が成立したのである。

かくして、ルーマニア王国で始まった国名は、約1世紀ほどの間に1947年に人民共和国、65年に社会主義共和国、そして89年の革命で単にルーマニアとなった。現在は共和制で市場経済に基づく民主国家を標榜している。ベッサラビアはソ連邦の一員としてのモルドバ人民共和国となり、1991年のソ連崩壊により、同国はモルドバ共和国の名で国連加盟国となった。しかし、その先にはロシア人居住者が多いということで、暫定的に沿ドニエストル共和国(国連未加盟)と称しているロシアの1支配地域がある。

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