アラブ・イスラムの4色物語②

アラブ諸国の独立と現状、そして今の各国の国旗を考える上でのキーパーソンは、フサイン・イブン・アリー(1853~ 1931)です。

フサインたちが第一次世界大戦のさなかに起こした「アラブの反乱」で用いた旗が始まりです。フサインは、メッカ(マッカ)のシャリーフ(太守、在位:1908~1916) と呼ばれた人で、オスマン帝国からのアラブの解放と独立を指導した人として知られています。第一次世界大戦のさなかにヒジャーズ王国を創立、国王(在位:1916~1924)となり、1924年にはカリフとなりました。カリフとは預言者ムハンマド(モハメット)の正当な後継者であり、指導者が持つ称号です。


フサイン・イブン・アリー

フサインはメッカきっての名門ハーシム家に生まれ、第一次世界大戦中の1915年、イギリスのマクマホン・カイロ駐在高等弁務官との間で、ドイツ側に付いたオスマン帝国に反旗を翻すときにはこれを支援するという「フサイン=マクマホン協定」を結んだ当事者です。

一方で、イギリスは1917年、当時の外相の名を付けた「バルフォア宣言」を発して、ユダヤ人にパレスチナの故地に国家を再建させる約束をするという「二枚舌外交」を行って、オスマン帝国の崩壊を企図しました。今日のパレスチナ問題の根源はこのイギリスの「何でもあり」政策に淵源を発しています。

イギリスはさらに「サイクス・ピコ協定」でアラビア半島とその周辺地域をフランスとともに分割支配する方針を決めており、フサインはやむなく、アラビア半島の一角のみにヒジャーズ王国を建国し、その国王となったのでした。しかし、第一次大戦後のイギリスからのアラブへの支援はなくなり、盟主ともいうべきフサインは重税を課したとされ、急速に支持を失い、また、各地でアラブ人諸勢力が反抗を企て、フサインはキプロス島に亡命、客死しました。

しかし、イギリスはその後もこの地域に巧みに介入して、フサインの子であるファイサル・イブン・フサインはシリア王を経てイラク王に、アブドゥッラー・イブン・フサインはトランスヨルダン(現在のヨルダン王国)の王に、仕立てました。イラクは1958年のカシム将軍らによる革命で共和国になりましたが、ヨルダンは今も王政のままですから、フサインはヨルダン王国の開祖ということになります。

汎アラブ色と言っても、すべてのアラ諸国がこの4色を国旗に用いているわけではありません。チュニジアはトルコと似た赤と白の国旗ですし、エジプトとイエメンは赤・白・黒の三色の国旗であり、アルジェリアは赤・白・緑の三色といった具合です。それでもこれに緑を加えた4色の「汎アラブ色」国旗は、UAE(アラブ首長国連邦)、イラク、クウェート、シリア、スーダン、ヨルダン、リビアで使われています。事実上、崩壊したソマリアの中にあるソマランドや未だ国連加盟を果たしていない、パレスチナや西サハラの国旗も4色の汎アラブ色だけでできています。

預言者ムハンマド(モハメット)がメッカに帰還したとき、2つの旗が掲げられていたということです。白い旗には「アッラーのほかに神はなし。ムハンマドはアッラーの預言者なり」という『コーラン』冒頭のシャハーダ(信仰告白)が書かれ、黒は正統カリフ時代の旗であり、黒はイスラム以前から復讐の色とされ、兵士は頭に黒い布を巻いていたのだそうです。服喪や戦争犠牲者への追悼の色ともされてきました。

白はダマスカスに拠点を置いたウマイヤ朝の時代、イスラム創成期におけるムハンマドの最初の戦さである「バドルの戦い(624年3月17日)を思い起こす色とされています。クライシュ族率いるメッカと、メッカを追放されたムハンマドを受け入れたメディナ側との間の戦闘です。ムハンマドは不利を克服して勝利し、この大きな危機をクリア(超克)したことで、メディナ内での権威を確立し、イスラム拡大への大きな一歩を踏み出したのでした。

緑はファーティマ朝時代にアリ・イブン・アビー=ターリブへの支持を示す色、赤はハワーリジュ派の旗です。ファーティマ朝はエジプトをはじめとし、北アフリカからシリア地方までを支配しましたが、その王朝の色が緑なのです。アリはムハンマドをテロリストから守るため、預言者の寝室で、緑布をまとって待機したと伝えられています。赤はハワーリジュ派の旗の色であり、後には北アフリカからイベリア半島の南部までを征服したアラブ人たちが使用した旗の色です。近代に入るとヒジャーズ地方の貴族、とりわけ、この地域を支配したハーシム家の色でした。

このように「アラブ反乱」の四色旗は、アラブ・イスラム世界で特別の地位を得、アラブ以外の地域でもイスラムの盛んな国々ではそのほとんどが、この四色を国旗の色として採用しているのです。

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