沖縄は日本の領土

沖縄のことはしっかり理解したいものです。それなくして、今日の、そしてこれからの日本の平和も発展もありえないと確信しています。


沖縄独立をめざす旗。
かりゆしクラブのHPより。

そうした基本的な視点で沖縄のことにいろいろ思いをめぐらせているときに手にした『祖国復帰は沖縄の誇り』椛島有三・仲村俊子(共著)というブックレットの中に、「世界と日本の誇り沖縄」と題する椛島有三日本会議事務総長が2011(平成23)年2月11日に、沖縄・建国記念式典で講演した記録が掲載されており、その中で、「琉球独立旗」について触れた部分がありましたので、まず、それをご紹介します。

中国で平成22年10月、反日のデモが行われました。このデモの横断幕の中に「琉球回収、沖縄開放」というスローガンを掲げたものがありました。中国共産党は琉球独立旗、琉球国国歌を用意しております。そして、琉球独立運動を支援すると言っています。
「琉球独立党」などの沖縄の左翼の集会では、「琉球独立旗」を掲げ、「琉球国歌」を歌っているのです。

沖縄の方々はご存じの方も多いと思いますが、彼らの言う「琉球独立旗」は、「三星天洋旗」という3つの星印が横に並んだ旗です。3つの星の1つ目は奄美州、2つ目は沖縄州、3つ目は八重山州を意味しています。

日本の沖縄領有は決してスムーズに行われたことではありません。ざっと復習してみましょう。

幕藩時代にあっては、琉球王朝は薩摩と清国の「日清重属」でした。

明治政府は、1872(明治5)年、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置しました。これは琉球を独立国家としてではなく日本への令制国として、ある程度の自治を認めるが日本の異に従うという形にしたものです。しかし、当然ながら、清はこれに反発、「琉球は古来中華帝国に服属していたもの」として、領有権を主張しました。これに対し、日本は「万国公法」(国際法)上、日本への帰属をはっきりさせようとして、たまたま1874(明治7)年に、台湾原住民による琉球出身者殺害(宮古島島民遭難)事件が起こった機会に、自国民保護を名目に台湾出兵を行ないました。この出兵を終結させるための条約により、琉球に住む人々を<日本国属民>と表記することで、条約上、琉球が日本に所属するものであることを日清両国が承認する形となったのです。しかし、日本としてはさらに支配を確固たるものにするため、1879(明治12)4月4日に軍隊と警官を沖縄に派遣して「琉球処分」を実施、沖縄での廃藩置県を断行し、とりあえず鹿児島県への編入(翌年に沖縄県となる)を発表したのです。

琉球王族や士族の一部にはこれに激しく抵抗する者がありました。このため「サンシー事件」(宮古島の一青年が日本からの派出所に雇用されることになり、これに反対する島民たちに嬲り殺しにあった事件。サンシーは「賛成」またはその青年のイミナが三姓であったことに拠るとされる)などが起こりましたが、やがて沙汰止みとなり、一部は清に亡命しました。このとき、日本政府は、清国の武力介入を憂慮したのですが、これは結局実行されず、琉球王国は日本という国家の中に組み入れられて消滅しました。国王そして最後は藩主であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への移住を命ぜられました。

翌1880(明治13)年、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに石垣島等先島諸島の割譲を提案しました。清もこれに応じ、仮調印までは行ったのですが、王朝内の実力者・李鴻章の反対によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になりました。

最終的な解決は1894(明治27)年の日清戦争を経で、その李鴻章の署名になる下関条約によってでした。清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得ませんでした。

ただ、「琉球処分」後、標準語教育を初めとする近代教育、文化、経済、金融、徴兵などあらゆる分野で沖縄件における「日本化=近代化」は急速に進められ、完全に日本の一構成要因となり、切っても切り離されない関係になっています。

第二次世界大戦にあっては本土唯一の陸上戦闘で大きな犠牲を出し、今なお、日本国内の米軍基地を大半を受け入れていることは、県民に東京って大きな負担となっていることはご承知の通りです。

ここで、最近私の周りで起こった出来事をちょっと紹介しましょう。

天児 慧(あまこ・さとし) 早稲田大学大学院教授はわが国の代表的な中国研究家として私が日ごろ、私が大いに尊敬している方です。その天児先生に、こともあろうに、この浅学菲才の私が論駁してしまいました。

2011年10月26日に行われた、日本国際フォーラムの「日中有識者対話」の席上でのことです。

中国側が7人、日本側はざっと30人ほどで、天児先生は日本側を代表してただ一人、基調報告をされました。

すばらしい分析でした。ただ、その中で「尖閣諸島を共同主権とし、管理は日本が行う」という「私案」を提示されたことには驚きました。居並ぶ日本側の、元外交官や学者等、「有識者」(いやな言葉ですね)が嫌な顔をされ、隣席同志で、「これはひどい」「なぜ事前にチェックしないんだ」などとささやきあっています。

一党独裁国の代表団を相手に、日本側が意見の対立をすることのマイナスは1973年以来の「日ソ専門家会議」(今の「日露専門家対話」)で何度か味わっていますが、ここで黙っていては、これは日本全体を代表する考え方だというとんでもない誤解を与えかねません。

天児先生とは先年、結婚披露宴でご一緒し、そのときの新婦とはその前の週、上海にご一緒しているし…などと公私混同で一瞬逡巡していたところ、湯下元駐比大使などが、「尖閣諸島はECAFEが周辺に石油資源があると報告書を出して、台湾が領有権を主張し始めて、中国はようやく自国領だと言い出したに過ぎない」と正論を、さすが元外交官、紳士的に提示されました。

そこで、根っからの野人である私も急遽、発言を求め、①天児先生の私案には本席に賛同する人がおらず、日本の有力な考えだと誤解しないでもらいたい、②島の領有について外国からクレームをつけられれば、たとえわが国固有の領土であっても、その場所を「共同主権」とするならば、韓国が対馬の領有をさらに言い募り、中国が琉球列島でも要求してきたら、これも紛争地だから「共同主権」だとして「解決」しようとするのか、と天児先生を厳しく糾弾しました。

案の定、中国側の崔という国際関係研究所長は「I appreciate Prof. Amako’s proposal…」と最後の締めくくりとして発言しました。向こうはしっかり受け止たようです。

こうした場合、配られた「レジュメ」は、しばしば一人歩きします。ですから、こういう提案は、十分、関係者で練り上げ、検討・吟味してからにしていただかないと同席した人も困ります。ことは主権に関する重要な国益に関わりますから、さらに慎重でありたいものです。

出席していたみなさんは、私の発言に大いに拍手してくれましたが、今後が心配です。終了後、天児先生とは互いに歩み寄って、しっかり握手し、禍根を残さないようにはしましたが、頼みますよ、天児先生。

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