イエメン

アラビア半島南端の国、国際テロ組織アルカーイダの指導者だったウサマ・ビン・ラーディンの父親の出身地イエメンの不安定な国内情勢についての話です。

北イエメンは1918年、第一次世界大戦でオスマントルコが敗れて、帝国が崩壊したときに独立した国です。長らく王様の支配するところでしたが、1962年、軍事クーデターにより、イエメン王国は崩壊し、イエメン・アラブ共和国となりました。


1990年から現在に至るイエメンの国旗

イエメン王国(北イエメン)の国旗(1927~62)

王政が倒れイエメン・アラブ共和国となってからの国旗(1962~90)

南イエメンの国旗(1945~90)

一方、紅海の入り口を扼し、軍事・通商上の要衝とされてきたアデンを中心とする南イエメンでは、1967年、英領から独立し、南イエメン人民共和国(後にイエメン人民民主共和国へ改称)となりました。

北イエメンでは内戦が勃発し、不安定な時代が続きましたが、1990年5月22日、南北イエメンが合併し、イエメン共和国が成立し、話し合いで、それまで北イエメン大統領を務めていたアリ・アブドラ・サーレハが初代の大統領として就任しました。

しかし、わずか4年後の94年5月4日、旧南側勢力が再び分離・独立を求め、約2ヶ月間の内戦になりました。これについてはアラブ諸国をはじめ、国際的な支持がほとんどどこからも得られず、7月7日には抵抗を止めました。

1999年9月、イエメンでは国民の直接投票による初めての大統領選挙が実施され、サーレハ大統領が再選され、再任しました。

2000年10月、旧南イエメン時代の首都であるアデンの港で、イスラム原理主義勢力アルカーイダによる米艦コール号襲撃事件が起こりました。

2011年1月、チュニジアでの「ジャスミン革命」は燎原の火のごとく、エジプト、リビアでの民衆革命に発展し、「アラブの春」と呼ばれる広がりを見せています。各地で反政府デモが発生し、イエメンも騒乱状態になりました。6月3日、依然詳細は分かりませんが、サーレハ大統領(69)が爆弾らしいものでの負傷により一時国外脱出し、8月6日、病院から退院、治療のためと称してアメリカに向い、9月23日に帰国しました。大統領不在のイエメンでアラビア半島のアルカーイダと政府軍の交戦が激化。そして11月23日、サウジアラビア・の首都リヤドで権力移譲に関する合意文書に調印したのでした。

「アラブの春」と呼ばれる流れの中で、イエメンでは、このように比較的平和的にサーレハ大統領の退陣が決まり、2月21日に後任を決める暫定大統領選挙が行われました。この選挙には与野党が統一してかついだアブドラブ・ハディ副大統領(66)のみが立候補し、事実上の信任投票の形になりました。国民の関心はサーレハ氏の動向や、社会の改革と再統合がどのように進展するかに向かっているようです。国際テロ組織アルカーイダが勢力を伸ばしたりすることを恐れた湾岸諸国や米国などが仲介し、与野党合意の上での選挙ですが、自由願う一票を投じる投票所の一部で銃撃が行われたりして、政情は依然不安定の様子です。

ハディ氏の当選は間違いないのでしょうが、暫定大統領の任期は2年。その「移行期間」後、改めて本格的に大統領選挙と議会選挙を行うことになっています。暫定大統領のもとで各派の和解をはかる「国民対話」を開き、新憲法を制定し、承認を巡る国民投票を行うことが合意されているとはいえ、すんなり行くとは思えない難関がいろいろありそうです。

これについて各紙の報道をまとめると、

  1. 副大統領としてサーレハ大統領に17年仕えたことへのハディ氏への基本的信頼
  2. シーア派の武装組織フーシ派や有力部族の離反などによる軍の分裂
  3. イスラム教シーア派勢力と、政府軍、スンニ派勢力の三つ巴の衝突
  4. アルカーイダ系勢力の伸長
  5. 南北イエメンの潜在的な乖離や対抗意識に基づく独立や自治拡大を巡る南北対立
  6. 「副大統領が『昇格』するだけの茶番」などと選挙ボイコットを表明した南部の分離独立派の動き
  7. 「アラブの春」で初めて平和的な退陣を選び、息子ら親族を軍や治安機関の幹部に据えたまま、療養の名目で米国に滞在しているサーレハ前大統領影響力…
  8. サーレハ氏一族の軍部からの追放
  9. 言論の自由を得た市民は「改革が遅れればデモを起こす」という傾向にあること

など、懸案は山積みのようです。

<「軍部とも、南部とも、部族とも野党やサレハ氏とも話せるのは、ハディ氏しかいない。彼抜きに和平合意はあり得なかった」(評論家)。野党ハック党のゼイド党首は「汚職や虐殺で手を汚しておらず、各派に対話を訴えるのに向いている」と語る。国際社会の支持もある>とされるハディ氏ですが、こうした難問をクリアして行けるか、注目したいところです。

<ハディ氏はまず「国民対話」などの場所で、高まった緊張の緩和を目指すことになる>と朝日新聞の記事は結んでいます。

これまでこういう場合に各国で行なわれてきたのは国旗の変更です。イエメンのみならず、中東諸国では政変のたびにもう何度も何度も国旗のデザインを変更してきた歴史があるのです。「アラブの春」、イエメンやシリアのみならず、まだまだ各地で紛糾しそうな様子です。

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