18世紀末のロシア国旗は今と同じ三色旗。当時の日本では国旗が制定されていませんでした。ですから、ペリーが来航した時には米側が31星の付いた「星条旗」を掲げているのに対し、日本側は徳川家の「葵の御紋」や警備にあたった各藩の紋のついた幟を落ち寄ったのでした。「日の丸」が日本の「惣船印」になったのはこのペリー来航が決定的に影響したと言えましょう。
ところで、1853年のペリー艦隊の来航は、「たった四杯で夜も眠れず」という一大ショックを与え、上を下への大混乱を生じましたが、幕閣や蘭学者たちにはほとんど想定内の「Xデイ」だったのではなかったでしょうか。
その約80年前から、手元の年表を付け合わすと、日本への列強からのアプローチについて、こんな事実が連らなっています。
その前に、きょうが東日本大震災から満1周年という追悼の日ということもあって、1771年の沖縄南部八重山地方で起こった大地震のことから書きましょう。4月24日(明和8年3月10日)、八重山地方での大地震による津波で12,000人もの死者・行方不明者が出たと伝えられています。当時の人口から言ったら、これは東日本大震災と比肩すべき大変な災害だったに違いありません。
しかし、内憂外患、この年は北からも「小さな大ニュース」がもたらされました。ロシアのカムチャツカから一人のハンガリー人が脱獄の上、ロシア船を盗んで、日本に寄港し、ロシアの南下を警告したのです。この男、ベニョフスキーは、当時、ロシア、プロイセン、オーストリアの3列強に分割され、消滅寸前にあったポーランドで反ロシア運動に参画し、捕えられてカムチャツカに抑留されていたのです。
高校の世界史を思い出してください。ポーランドはこのあと、1772年8月5日にロシア(露)、プロイセン(普)、オーストリア(墺)の3国に(第一次分割)、1793年1月23日に露、普の両国に(第二次分割)、そして1795年10月24日には再び3カ国に分割(第三次分割)され、この後、約125年間も地理上から消滅したのでした。時代はまさに〇肉△食(焼肉定食? いえいえ弱肉強食)の時代でした。
それはさておき、ベニョフスキーは、自力で阿波(今の徳島県)、奄美大島(今の鹿児島県)に到着し、そこで、出島のオランダ商館長宛に手紙を託しているのです。その手紙で彼は、「来年以降、ロシアが3隻の船で日本に侵攻するので、オランダは船を出して巡視すべし」と書き記しているのでした。
オランダ側はこの警告を「儲からなことには関わらない」「この男は怪しい」として、「積極的に無視」(黙殺)する扱いをしたのです。日本との当面の通商を独占するという以上に、商館長は対応をしようとしなかったのでしょう。
ところが、この情報はオランダ通詞・吉雄耕牛や蘭学者・前野良沢らと親交のあった、仙台藩の医師で経世家とでもいうべき工藤平助(球卿)に伝わり、平助は自著『赤蝦夷風説考』で記して、ロシアの南下を警告しました。この書の上巻序文には「天明三年癸卯正月日」とあるところから天明初年(1781年)ごろの刊行と見られています。
この稀代の冒険家の一人とでもいうべきベニョフスキーは、台湾を経て最終的にはヨーロッパに戻ったのでした。
これより先、1778(安永7)年、ロシア船が松前藩に通商を求めてきましたが、翌年、拒否すると去って行きました。
1785(天明5)年、事態を憂慮した老中・田沼意次(おきつぐ)以下の幕閣は最上徳内に命じ、南千島の探検に向かわせました。『赤蝦夷風説考』は田沼にも献じられていたのです。
1792(寛政4)年、ロシアから公式な使節としてラクスマンが根室にやってきました。伊勢の漂流民・大黒屋光太夫と磯吉を伴い、通商を要求したのです。これに対しても翌年、拒否の返事をしました。
1795(寛政5)年、ロシア人が蝦夷地で日本人を襲い掠奪しました。
1797(同9)年、英人ブロートン、東洋を調査中、室蘭に入港。
1798(同10)年、近藤重蔵が北方探検をしました。
民間でも今日、北方領土と言われている4島の中で最大の島(日本最大の島)択捉島に、1799(同11)年、淡路島出身の商人・高田屋嘉兵衛が到達、択捉航路を開きました。
1803(享和3)年、今度は米船リベッカ号が長崎に来航、貿易を求めました。
1804(文化元)年、ロシア皇帝からの公式な使節・レザノフが漂流民・津太夫を伴い、長崎に来航、通商を求めました。しかし、半年間も待たされた挙句、翌年の回答は要求拒否というものでした。
これに対し、1806(文化3)年、スヴォストフ等レザノフの部下たちが、樺太、利尻島、そして北方領土などで番所や民家を襲撃し、警備していた南部藩の武士たちを拉致するという事件を起こしました。
1807(文化4)年、米船がまた長崎に来航しました。
1808(文化5)年、英艦フェートン号がオランダの国旗を掲げながら長崎に侵入し、食糧・水・蒔を供給させ出てゆくという事件を起こしました。対応した長崎奉行・松平康英は、祖法を守れなかった責任を取って切腹して果てました(「フェートン号」事件)。
北蝦夷でのトラブルはさらに続きます。
1811(文化8)年、ロシア軍艦艦長ゴロウニンらが国後島付近で捕えられ、松前に送られました。ゴロウニンは貴重な情報源であるということから、全国から研究者が松前を訪ね、中には国旗の図表を見せながら知識を得ようとして接触する洋学者もいました。
1812(文化9)年、ゴロウニンの副長リコルドがゴロウニンの釈放を求めたが拒否され、高田屋嘉兵衛を連れ去りました。嘉兵衛自身の努力と折衝の結果、翌年、ゴロウニンと相互交換されて一件落着となりました。
1818(文政元)年、イギリス人ゴルドン、浦賀に来航し通商を要求。
1821年、前平戸藩主・松浦清(静山)が『甲子夜話』の中で「魯西亜漂舶幟并和蘭軍船用法大略」を記述。これが現存するわが国での最も古い外国の国旗について日本語で書かれた書物です。時代の危機感が伝わってきます。