1851年7月4日から7年間続いた31星付の「星条旗」。ペリーはこの国旗を掲げて、2度、来航した。
「そんな昔のことを」といわれる方に、自販機でおなじみの
「伊右衛門」のペットボトルを思い出していただきたいのです。
伊藤久右衛門が茶店を始めたのは天保3年とそのペットボトルに書いています。これすなわち、1832年のことです。
以下は、そのころの国旗研究の話です。
ペリーが1853年に来航するまでに、諸外国はさまざまな形で対日アプローチを行っています。そして、その間に、日本の何人もの学者や幕府の役人や各藩の藩士たちが、熱心に外国の国旗について研究し、書物を出して(カラー出版して)いるのです。日本の対外情報はかなりのものに達していたと思われます。
以下、また年表に従って、動きを見ながら、相次ぐ国旗の出版状況について見て行きましょう。
1823(文政6)年、シーボルト来日。米捕鯨船、小笠原に寄航。
1825(文政8)年、「異国船無二念打払令」発布。
1827(文政10)年、英艦、小笠原に寄り、英領であることを宣言。
1828(文政11)年、「シーボルト事件」。翌年、退去。日本渡航を禁じました。
1830(天保元)年、小笠原にアメリカ人、セーボリーらが移住。
1837(天保8)年、米船「モリソン号事件」、音吉ら「三吉」らを乗せて来日、砲撃を受け、退去。
1840年、幕臣・貴志孫太夫(朝暾=ちょうとん)が『万国国旗図及檣号図』
1844(弘化元)年、オランダ使節コープス来日。国王からの開国進言の国書を届けましたが、幕府は翌年、これを断わりました。
1845年、津山藩医・宇田川榕菴『国章譜』(万国旗章譜)、『航海旗章譜又名百九十一番旗合』
1846年、著者不明『万国旗印』。同年、津山藩医・箕作阮甫『外蕃旗譜』
1846(弘化3)年、アメリカ人、択捉島に漂着し、送還されましたが、その時の待遇の仕方が米世論を刺激しました。また、米艦隊が浦賀に、仏艦隊が長崎にやってきました。
1849(嘉永2)年、米艦、長崎に入港。
1851(嘉永4)年、中浜万次郎、米船で帰国。
1851年、鱸 重旹(しげとき、泰卿)『万国旗章図譜』
1852年、『萬國旗章圖譜』京都の勝村治右衛門が出版。
1853年、松居信(南岱)『万国舶旗図譜』
1853(嘉永6)年、米使ペリー、艦隊を率いて浦賀に来航。ロシア使プチャーチン、長崎に艦隊を率いて来航。
1854(安政元)年、ペリーの米艦隊再来航。「日米和親条約」調印。大老・阿部正弘、日章旗を日本国惣船印とすることを決定。
1854年、『萬國旗鑑』鈴亭蔵
このほか、『西洋諸國海舶幟鑑』『西戎徽幟圖鑑』『西洋旗譜』『内外國旗章』『万国旗幟集(堀江清足)』『万国航海幖旗図』『万国人物並船幟図』『万国幟印(内藤安房守)』『蛮国幡印』『万国旗印帳(伊藤醇)』『万国幖旗図』が年代不詳ではあるがこの時期に出版されているのです。
1855(安政2)年、「日魯通好条約」調印。択捉島と得撫(うるっぷ)島との間を国境とすることを決定。今日の北方領土問題は、この国境を尊重するかどうか、つまり、択捉島以下は一度も日本以外の領土になったことがない、その固有の領土の返還を求めているのが日本側の求める解決なのです。
ところで、余談ながら、この江戸時代後期、オランダからはさまざまなものが伝わりました。
1800(寛政12)年、オランダ人ヅーフが、オルゴール・フルートなどを伝え、
1823(文政6)年、シーボルトが江戸参府の際ピアノを贈り、
1848(嘉永元)年、種痘、そして鉛製活字板が伝わりました。
1841(天保12)年、写真機が渡来、さらにイチゴも伝わりました。
1853(嘉永6)年、ペリーの艦隊が清涼飲料を伝えました。Coca Cola?! まさか。
実際の出版物や個々著者については、これからも随時、紹介してまいります。