国旗で見るミズーリ号での日本降伏式②

降伏式に日本側からは、政府を代表して重光葵外相(1987~1957 東條、小磯、東久邇内閣で外相など。極東軍事裁判ではソ連の要求でA級戦犯となり懲役7年の判決。のち改進党総裁、自民党副総裁)が、また、軍を代表して、梅津美治郎参謀総長(陸軍大将)が参加し、署名しました。


横山一郎少将は後列左端、重光外相の帽子の上から顔がのぞいている。
降伏文書に署名しているのは梅津参謀総長。

重光はこの日の降伏文書調印式のことを自らの『手記』に次のように書いています(抄)。

海上無数の大小敵艦を見る。

二百十日横浜沖の漕いで出て

プリンス・オブ・ウエールズの姉妹艦キング・ジョージ五世も白く塗った巨艦を横たえて居る。九時十分前米海軍旗艦「ミズリー」号に到着す。更にランチに移乗してミズリーの艦側に近づくことが出来、それから記者を先頭に舷梯を攀ぢて上がった。式場外は立錐の余地なき迄に参観の軍人や新聞記者、写真班等を以て埋められ、大砲の上に馬乗りに跨って列をなして居る。

上甲板の式場には、正面に敵側各国代表がすでに堵列して居った。左側は写真班、右側砲塔側には参観の将官等重なる軍人が列んで居る。其の中には比島で俘虜となったウエーンライト将軍やシンガポールで降伏したパーシバル英将軍も並んでいた。

中央に大テーブルあり、マイクは向う側に立つ。我等は之に向かって止まり、列んだ。艦上声なく、暫時我々を見つめた。室外なれば着帽の儘で敬礼等の儀礼は一切なし。

敵艦の上に佇む一時は  心は澄みて我は祈りぬ

九時マッカーサー総司令官簡単なる夏服にて現われ、直ちに拡声器を通じて二三分間の演説をなす。
戦争は終結し、日本は降伏条件を忠実迅速に実行せざるべからず
世界に真の平和克復せられ、自由と宏量の尊奉せられんことを期待す。
との趣旨を述べた。
全権委任状の提出、天皇の詔書写を手交し、先方の用意してある降伏文書本文に記者が調印を了したのは、九時四分であった。
マッカーサーは連合軍最高司令官として、日本の降伏を受け入れる形を以て、文書に署名した。

(中略)

ペルリ提督日本遠征の際に檣旗として掲げた星条旗を博物館から持って来て、ミズリー号式場に飾ったのは、占領政策の政治的意義を示す用意に出たものと認められた。
退艦も乗艦の時と同様の儀礼にて、ランチに移り、駆逐艦に移乗して、湾内を巡視して埠頭に帰り、接伴員に慇懃に分かれを告げて、神奈川県庁に帰着した。米国側の取扱は総て公正であった。
帰路東京湾中より富士見事に見ゆ。
首相官邸に帰り着いたのはすでに十二時過ぎで、直ちに総理宮に報告を了し、昼を了りて、一行を解散した。

日本側の随員は、陸海軍の将官や大佐、外務省や終戦連絡中央事務局などの計9名でしたが、その一人に、海軍省出仕の横山一郎海軍少将(1900~1993)がいます。戦前は駐米武官補としてワシントンに滞在したことがあり、この降伏式の直前にはマニラに赴いて現地での降伏式に参加しています。このときの話し合いや文書は全部英語で交わされましたが、日本側で英語を自由に解せるのは横山一人だったとのことです。

余談ながら、横山の妻・愛子の父親は小倉卯之助予備役海軍中佐(兵学校26期で野村吉三郎大将と同期)

この小倉は今、スプラトリーとか南沙群島と呼ばれている新南群島の「発見者」です。1918(大正7)年、小倉は帆船・報効丸に乗ってこの島を発見、大日本帝国の標識を立てました。それを機に自ら海軍を退役して島の開発にあたり、燐鉱石の採取事業などにあたりましたが、この程度の実績ではまだ国際法上の先占は認められないおそれがあると一郎は憂慮し、その後、海軍省軍務局員であったとき、予備役海軍大佐千谷定衛(34期)ほか数名を派遣し、一カ年居住という実績をつくり、その上で、わが国の領土であることを宣言しました。当時、インドシナを支配していたフランスもことあげしない「静謐外交」を望み、日本は赤道近くに新たな領土を獲得し、台湾の高雄市に編入したのです。

この横山少将という人が『海へ帰る-海軍少将横山一郎回顧録』(1980年、原書房)で、この降伏式に立ち会った日本人の一人として、「31星の星条旗」について記述を遺しているのです。「調印式の最中に飛行機多数艦上空を飛びお祭り騒ぎの感があった。式場砲塔の側壁にはペルリ提督来航の時用いた星条旗が額に入れて掲げられてあった」。

「31星の星条旗」というのはご覧の通り見慣れていないと、とても判りにくく、かつ、正式なものとこのペリーが実際に使ったものでは星の位置がずれており、よくぞ横山少将はこの緊張した場面で気づかれたものと感心し、敬意を表する次第です。重光自身、外交官としてまた政治家として数々の修羅場を乗り越えてきた人ですから、直接、この「31星の星条旗」に気付いていたかとは思いますが、それを手記に書き綴っているのです。


横山一郎少将と岡崎勝男外務省調査局長は敗戦直後の8月20日午前10時30分からマニラシティホール内の米太平洋陸軍司令部で行われた日本の降伏に関する協議にも出席しました。写真の日本側は、左から吉田英三大佐、大前敏一大佐、横山少将、河辺虎四郎中将、岡崎局長、天野正一少将、山本新大佐。米側はウィトロック少将、マーシャル少将、シェルマン提督。左

大佐時代の横山一郎

「31星の星条旗」
カリフォルニアに州昇格により1851年の独立記念日から8年間、米国の国旗であった。

アリゾナとニューメキシコの州昇格で1912年から47年間、米国旗であった「48星の星条旗」。
米国はこの旗で、第一次、第二次世界大戦を戦った。

降伏式典は予定よりやや遅れ、9時2分にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、約2分間の演説を始めました。この降伏調印式は23分間にわたって世界中にラジオで実況中継放送されました。重光、梅津の順に署名し、ついでマッカーサーは5本の万年筆を取り出して取り替えながら署名した。そして、最初の1本を、ジョナサン・ウェインライト中将(1983~1953)に渡しました。同中将は、マッカーサー大将(1944年に元帥に昇任)がフィリピンを脱出してからバターン半島とコレヒドール要塞に立てこもり米比軍を指揮を執ったのち、44年5月、日本軍に降伏、捕虜として満州に移送され、終戦まで収容所で過ごしていました。マッカーサーが特に指名して降伏式に招きました。指揮の3日後に大将に昇任し、戦後も軍務に就きました。

2本目は英軍極東軍司令官だったアーサー・パーシバル中将に贈られました。同中将は、訓練不十分な2個師団半のみを指揮し、1942年2月にシンガポールが陥落したとき、山下奉文率いる日本軍に13万の残存兵と共に降伏しました。13万人が降伏というのは英国史上最大規模の降伏です。その後は捕虜として、台湾経由、満州で抑留生活を送った人です。

3本目はマッカーサーの母校であるウェストポイント陸軍士官学校、4本目はアナポリス海軍兵学校に贈り、最後の1本は妻ジェーンにとして自らのポケットに入れたのです。

続いて、米海軍のニミッツ元帥、さらには中国の徐永昌、ソ連のテレビヤンコ大将、以下、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの各国代表の署名が続きました。

その間も甲板ではカナダ代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが起こり、混乱が起こっていました。フランス、オランダの各代表も1つずつずれてしまい、最後に署名することになっていたニュージーランドのレオナルド・イシット少将は米側の指示に従い欄外に署名して終わりました。カナダ代表の欄は空欄となったままです。

最後に、マッカーサーは「これを以って平和は回復せられた。神よ、願わくはこれを維持せられんことを」と結んで式を終えました。全体で20分ほどの式典でした。長く激しい戦争の終結場面としては、ごく短時間で終えたという印象です。

調印式終了とともにグラマンの戦闘機編隊と前夜まで日本をしこたま無差別爆撃した(私の故郷・秋田も前夜の23時から同日早暁まで無差別爆撃にあい、民間人のみ70余名が亡くなりました)B-29が祝賀飛行を行いました。艦載機は1500機、B29は400機も東京上空を「祝賀飛行」をしたという記録もあります。

その後、各国代表は祝賀会の会場である船室に移動したのですが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将がまだ居残っていた日本側の岡崎勝男終戦連絡中央事務局長官(1897~1965、後に吉田内閣の官房長官、外相)に署名の間違いを教えました。岡崎は困惑しました。そこで、米軍のリチャード・K・サザーランド参謀長(中将)に意義を申し立てたのですが、同参謀長は降伏文書をこのまま受け入れるよう日本側を説得したのです。そこで、重光葵外相が、「不備な文書では枢密院の条約審議を通らない」とはっきり拒否。しかし、すでに祝賀会は始まっており、結局、マッカーサーの代理としてサザーランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとして決着。日本側代表団はこれを受け入れて9時30分、にミズーリ号から下船しました。

余談ながら、岡崎はこのあと帰庁し、さらに横浜に向かい、米側が翌日発することになっていた3つの重要な命令について、これを拒否することを申し出、受け入れさせるということをしています。その内容には、米側の直接統治、英語を公用語とすること、米軍の軍票を通過とすることといったものがありました。この期に及んで、この外交力というのは、実に見事なものと感謝したいと思います。


1961年10月20日、国連本部でハマーショルド事務総長と話をする池田勇人首相。その中央に見えるのが岡崎勝男国連大使(当時)。右は小坂善太郎外相。
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