国旗で見るミズーリ号での日本降伏式③

日本人でも米国人でも先人には、見事な立ち居振る舞いや生き方をする人がさまざまな場面でいたのだなぁと、史書を読んだり、直接、お目にかかったりする機会に感慨にふけることがしばしばあります。ここでは降伏文書に署名した重光葵とマンスフィールド大使のことに触れたいと思います。


重光 葵(まもる)
伊藤隆・渡辺行男編『重光葵手記』(中央公論社、1986年)より。

これより先、重光は1933(昭和7)年、上海における天長節(昭和天皇の誕生日)の祝典に参加した際、爆弾を投げられ、片足を付け根から失ったのでした。その時、重光は爆弾を投げ込まれたにもかかわらず、檀上で国歌斉唱中だったので動くのは不敬であるとして、じっと我慢して「君が代」歌ったと伝えられています。

しかも、動かなかったのは他に檀上にいた白川義則司令官(この事件で死亡)、野村吉三郎司令官(この事件で右目失明。日米開戦時の駐米大使)、植田謙吉師団長(この事件で足指切断。後に大将、関東軍司令官兼駐満大使)など全員が直立したまま国歌を歌い続けたというのです。あの時代の日本人、「昔の人は…」と敬服するほかありません。

私はかねて東京・赤坂にある駐日メリカ大使館の大使応接室には、旗艦サスケハナ号の1m大の模型が飾られていると聞いていましたので、マイケル・J・マンスフィールド氏(1903~2001)が大使になり、たまたま別件でお目にかかる機会を得た時、是非、確かめたいと思って大使館を訪問しました。大使は、民主党上院院内総務を16年間という米議会史上空前絶後の記録保持者であり、政界引退後の駐日大使も1977~89年と長きにわたり、務められました。

大使は来客には自らコーヒーを沸かしてくれることでも有名でしたが、どうやらそれは、「お茶くみは女性の仕事」という当時の日本社会の慣習に抗議をする意味もあったようです。それはさておき、私にはそのサスケハナ号の模型のことが気になり、「あの船を拝見したい」と申し出ると、気軽に近くで見せてくださいました。そこで「はっきりお伝えすることをお許しください。日本人として、これはあまりうれしくない模型です。日本人の来客も多い応接室に置かれるのは如何なものでしょう。ミズーリ号での調印式にそのサスケハナ号が用いた星条旗を掲げたと同じセンスですね」と申し上げました。武士道は違うということを言えばよかったのかもしれませんが、そこまでは申し上げませんでした。

その後、その部屋に伺う機会がありませんので、今、どうなっているかわかりません。どなたかご存知の方がいらっしゃれば、お聞かせください。

しかし、そういう私をも、さすが米政界の大物だった大使だけあって、その後もさまざまな機会にお目にかかるとあたたかく迎えてくださり、令夫人は、私が役員をしていた難民を助ける会のチャリティ・コンサートに出演して、東京芸術劇場でピアノ演奏までしてくれました。アメリカ人の率直な善意を感じたものでした。

ただ、アメリカ人は、時々、どうしてこういう無神経なことをするのかと思うことがあります。たとえば、極東国際軍事裁判(東京裁判)の起訴を1946年4月29日の昭和天皇(当時の今上陛下)の誕生日に行い、東條英機ら7人のA級「戦犯」の処刑を1948年12月23日の皇太子殿下(今上陛下)誕生日に執行するという報復主義的行為は私にはわかりません。こう言うことでも日本人は従順であったとし、イラクやアフガニスタンで、またはバグダッドやグアンタナモなどの収容所でかつて対等に戦った政府の要人などを「囚人」として侮辱的に取り扱っても通用すると思うのが許せないのです。そこに、一貫した「アメリカの悪」を私は強く感じます。

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