森西栄一氏(写真はサハリさん提供)
私が最も尊敬する人物の一人である故・森西栄一が責任を持って果たした仕事の1つが、東京オリンピックの「聖火リレー」である。
1961年に、森西たちは聖火リレーの陸路調査を行なった。アテネからシンガポールまで、聖火を陸路でリレーしようという構想があり、組織委が朝日新聞と日産自動車の協力で調査団を派遣したのであった。
森西は帝産オートという会社でタクシーの運転手をしながら、法政大学の夜学に通っていた。ある日、グラフィック・デザイナー界の大御所・亀倉雄策と、旧都庁を設計し、国立室内競技場など五輪の主要施設を手がけた丹下健三とが偶然、客として乗り合わせて、座席でこの構想について話し合うのを耳にした。
森西は直ちにこの二人の巨匠に志願して、即刻採用されたという。東京五輪の3、4年前のことだ。まだ3、40人しか職員はいなかったはずだ。
4WDのニッサン車が2台、相棒の運転手は足立だった。
「結局は女ですよ、女」。
森西は、後に何度も、「はき捨て」るように、そう言った。長旅の途中で団長以下、他の参加メンバーが旅の恥は「掻き捨て」をやったのだ。「挙句は、女を巡って喧嘩だよ」。
運転する二人は疲労困憊、加えて自動車の整備・管理の責任があり、真面目だったというのは、他のメンバーからも後に聞いた。
結果は、デリーまで来て、チームは解散。それぞれが勝手に帰国し、運転した二人はシンガポールまでひたすら走って、予定された船の出発に間に合わせた。
森西とは親子ほども年齢が離れた足立との絆が深まった。
南十字星を見ながら、森西が言った。
「足立さん、オリンピックが終わったら、私をラリードライバーとしてコーチしてください」
「ああ、いいとも。アテネからここまでキミはよくやったよ。とりあえず、ニッサンのスポーツカークラブに入ってラリーの基礎を勉強しておきなさい。目標はどの辺りかね」
「ぼく、サファリラリーヘの出場が夢なんです」
「えっ!? きみ、本気かね?」
「はい、もちろん。どんなことでもしますから教えてください」。
この夢は二人で着々と実現への準備を重ねていった。東京五輪まであと3年というときだった。
東京五輪後、森西はニッサン・スポーツカー・クラブに所属して、全国制覇を数回、そして30歳を大分超えてから、50台の足立と一緒に念願のサファリラリーに出場するため、ケニアに向った。タクシーを改造したラリー用車両だった。
そして、いよいよ本番の前日、センターラインのない道路を進んできた対向トラックと正面衝突して、森西は即死した。足立は言う。「瞬間の判断で森西はハンドルを逆に切って、助手席の私を守ったのだった」。
遺された遺児はその名も「沙波里(サハリ)」。森西の葬儀の日から40数年ぶりで、3年前、私は、今では母となった沙波里と対面した。「父を知らないから何でも話ししてくれ」とせがまれるまま、たくさんの思い出を話した。
それにしても、運転席までが亡くなるほど破壊され、ぼろぼろになった森西の愛車に、「日の丸」だけがなぜかくっきりと描かれたまま無傷で残っていたのが忘れられない。(文中敬称略)