「青天白日満地紅旗」の物語


日本が中国と戦っていたころは中国大陸全土に翻っていた中華民国の国旗「青天白日満地紅旗」。
1928年、現在は、台湾政府の支配する地域、すなわち、台湾、澎湖島、刑務所のある緑島、中国福建省に属する金門島、馬祖島、そして南沙群島(スプラトリー諸島)最大の島・太平島にのみ掲揚されています。

2011年は中国で清朝が倒されて100年、今年は中華民国成立から100年目です。

当時から用いられていたとはいえ、その中華民国の国旗が正式に「青天白日滿地紅旗」になったのは、1928年のことでした。それまでの歴史を振り返ってみましょう。

1893年、中国国民党の前身である中国革命同盟会の旗として、陸皓東がデザインしたものが「青天白日旗」をもとにしたものです。それは今の国旗のカントン(竿側上部)の部分だけでした。

陸皓東(1868~95)は、今では台湾からも中国からも「国父」として尊敬されている、中華民国臨時大総統・孫文(中山 1866~1925)の幼馴染であり、孫文の革命活動に早くから参加し、1895年、最初の革命団体・興中会の香港での設立に参加した同志でした。同年10月、「第一次広州起義」による革命の本拠地づくりにあたったのですが、事前に清朝当局に探知され、逮捕・処刑されました。孫文からは革命運動での最初の犠牲者であると評価されている人物です。

陸皓東がデザインしたのは、現在は台湾の中国国民党の党旗である「青天白日旗」を「第一次広州起義」に際しデザインしたのでした。

しかし、1906年に孫文がこの「青天白日旗」を自分たちの創る中華民国の国旗として採択しようとした際に、同じく革命家であり、日本との間を何度も往復し、繰り返し清朝に立ち向かった黄興(1874~1916)が、「青天白日旗」だけでは色彩が単調・素朴すぎ、「日の丸」を連想させると指摘し、賛成できない(太過單調、樸素,又與日本國旗相似,不贊成使用青天白日旗)としたので、革命同志挙行興中会盟会南洋分会副会長・張永福の妻・陳淑が構想していた4つの国旗の原案の1つから、孫文がカントンのみに「青天白日」のしるしを置き、全体の4分の3を赤地にした「青天白日滿地紅旗」を採択したのでした。なお、最初の「青天白日旗」は、1919年に成立した中国国民党の党旗に採択されました。


陳淑が構想していた4つの国旗の原案はこの3つと「青天白日満地紅旗」でした。

「五色旗」を掲げる北京の袁世凱初代中華民国大総統(1879~1916)が北部を中心に勢力を張っている中で、国民党は次第に力を蓄え、1925年に広州で国民政府を樹立し、「青天白日滿地紅旗」を国旗として定めたため、中華民国には2つの勢力が別の国旗を掲げる事態が生じました。


1911年の辛亥革命後、総統となった袁世凱が採択した国旗「五色旗」。
漢、満、蒙、回、蔵の中国の主要5民族を表すとされたデザイン。
後に「満州国」の国旗となった。

袁世凱初代中華民国大総統

蔣介石初代国民政府総統

しかし、1928年に蔣介石初代国民政府総統(1887~1975)の南京国民政府が北伐を完遂、全国を統一して、「五色旗」を廃し、「青天白日滿地紅旗」を国旗とし、この旗が名実ともに統一した全中国に掲揚されました。その際、「青天白日」は国章として制定され、蒋介石以下の勢力が、台湾ほかに縮小された現在も、中華民国の国旗・国章として継続して認められています。

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