ポルトガルのアジアへの進出について触れたいと思います。ポルトガルの世界的発展を論ずるには、日本について落とすわけには参りません。
2005年の愛知万博でポルトガル館に展示された火縄銃
1543年9月、種子島の西之浦湾に漂着したポルトガル船が鉄砲を伝えたことはあまりに有名です。船に乗っていた「牟良叔舎(フランシスコ)」と「喜利志多佗孟太(キリシタダモッタ)の2人は、わが国に初めて来航した欧州人ですが、鉄砲を所持しており、明の儒生・五峰が西村織部との筆談しながら、実演を行い、種子島の主である種子島恵時・時尭親子が2挺を購入して、鍛冶屋に複製させ、研究を重ねたものが、わずか15年ほどでたちまちにして日本中に普及しました。種子島にポルトガルからの鉄砲が伝えられてからわずか32年後の1575年、信長・徳川家康連合の軍勢が最強といわれた武田勝頼の騎馬軍団を長篠で破ったのは、その鉄砲の優劣が決定的原因であったと伝えられています(異論もあります)。
天下分け目の「関ヶ原の戦い」は57年後ですが、『関ヶ原合戦絵巻』に東西両軍が鉄砲をふんだんに使っている様子が描かれています。
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
関ヶ原合戦絵屏風
ついでながら、この合戦では各藩の軍勢のほとんどがさまざまな色で描かれた「日の丸」を掲げ、「われこそは正統なる者なるぞ」という意気込みを示しています。「finomaru」という単語が、宣教師たちからポルトガルの本国に送られた文書に登場してもいます。
このあたりのことは改めて詳しく書くことにしましょう。お急ぎの方は、拙著『知っておきたい「日の丸」の話』(学研新書)をご参照ください。
インド亜大陸は長年にわたりそのほとんどをイギリスが支配していました。近年まで続く例外は、17世紀末から1954年まで、フランスがポンディシェリとシャンデルナゴルなどに行政権を保持していたことと、1498年、バスコ・ダ・ガマの渡航以降、ポルトガルがゴアやダマン、ディーウなどを支配していたことくらいです。
1961年12月、インドのネルー政権は3万の軍勢により、ゴアに軍事侵攻を起こし、わずか3300人の兵力が貧弱な武装で対抗したポルトガル現地軍を圧倒し、同月19日、ポルトガルはインド亜大陸のすべての領土を失ったのでした。ポルトガルは国民議会において、ゴア、ダマン、ディーウのインド支配を拒絶し続け、1974年のポルトガルの「カーネーション革命」による新政権がようやくインドとの関係修復を図りました。
それでも、ゴアほかの住民はその後もポルトガル市民権を保持する権利を持ち続けましたが、2006年以降は、1961年以前のポルトガル統治時代に生まれた者だけがその市民権を持ち続けられるということに制限されました。
また、ポルトガルは1511年以来マレー半島のマラッカに、また、1513年以来、中国大陸のマカオ(澳門)を支配していたのですが、マラッカは早々に失い、時代の趨勢になすところなく、最後の拠点マカオは1999年に中国に返還されました。
ちなみに、フランシスコ・ザビエル(1506頃~52)はスペイン生まれのバスク人ですが、ポルトガル王ジョアン3世によりゴアに派遣され、マカオを経て、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたのです。その6年前に、種子島に漂着したポルトガル船も、マカオから南下しようとして流されたのでした。