パキスタンの国旗。1946年採択。
バングラデシュの国旗。1972年採択
1970年代の初め、私は国際赤十字の駐在代表として東パキスタンにいました。滞在中の1991年12月3日、インド軍は東西パキスタンに介入(第3次印パ戦争)、3週間後、東パキスタンはバングラデシュ(ベンガルの国)として独立しました。
この戦争は、国際法的にいうなら「模範的な戦争」と言っていいでしょう。特に、対人地雷については両軍とも「地雷埋設地図」を完備し、戦闘終了後、99%を撤去したという実績を持っています。正規軍の捕虜についても、1949年のジュネーブ条約に則ったすばらしい待遇を互いに与えていました。そのことは、当時のNHKの「特派員報告」という番組ででも、私はダッカの捕虜収容所で話しています。民間人の収容所でも同じで、トラックに山積みしたバナナを配っている自分の映像を、テレながらモニターしていたのを今でも覚えています。バナナは緊急の食糧援助としては最適だと今でも思いますし、それゆえに1990年代には「朝鮮の子どもにバナナとタマゴをおくる会」(三木睦子会長、私は実行委員長)を組織して、例の万景峰号を使い、新潟から元山(ウォンサン)や清津(シンジン)に計11回にわたり、各品10万個ずつを届け、毎回、二人のモニターを派遣しました。
現在、「拉致被害家族を救う会(救う会)」の平田隆太郎事務局長は、初期の4回にわたり、北朝鮮を訪問して、このモニタリングにあたりました。その後、拉致問題が明らかとなり、即刻、人道的な活動とはいえ、国民の理解を得ることは出来ないということで、この活動は停止しましたが、飢餓にあえぐ隣国の子どもたちに、及ばずながら多少の支援ができたことは、自分でできる務めを果たしたことと自負しています。
閑話休題といいながら、今度はここで、少々自己PRをお許しいただきたい。バングラデシュから帰国後の1973年、その時の体験を『血と泥と―バングラデシュ独立の悲劇』として読売新聞社から上梓しました。それが40年を経た2012年4月25日、首都ダッカの出版社から、ベンガル語で翻訳出版されたのです。
昨年、NHKの海外放送で数回に分けてこの本の朗読がオンエアされ、それを聴いたバングラデシュの出版社の人が雑誌に一部を紹介し、それが今度は大半をまとめて、単行本になったのです。私はまだ出版社の名前すら知りません。当時、中立な国際機関のスタッフとしてありのままを書いたのですが、勝者であるインドとバングラデシュ側の思わしくない行為については最終段階で翻訳が止めになったところも多少あるようです。
とりあえず10冊、おくってくれたようですが、経由地のドバイであやしい出版物とみなされたのか、8冊が没収され、いま、2冊だけが東京に再送されているようです。
40数点ある私の出版物では私が監修した『地雷ではなく花をください』(作・柳瀬房子、絵・葉祥明)は8、9ヶ国語に翻訳出版され、日・英語汎だけで58万部も出版されました(純益は全て対人地雷撤去と啓発活動に充当)が、それは例外中の例外であり、拙著となると国旗の本が一冊と、国際協力に関するもの1冊が中国語になっただけですから、40年ぶりのこのベンガル語版の出版は実に嬉しい限りです。
NHK国際局の渡辺一弘ディレクターをはじめ、ご苦労いただいた人たちに感謝します。
これでまた、当時の関係者といろいろコンタクトができるのではないかと期待しています。
バングラデシュ建国から1年ほどを経た1973年に読売新聞から刊行した拙著
爾来40年を経て、4月25日、バングラデシュの首都ダッカで刊行された『血と泥と』のベンガル語版『Rokto O Kada 1971』の表紙。これで表を包み込むようにする。中央が背文字。
ところで、バングラデシュはインド同様、世俗国家を標榜している国ですが、人口の大半を占めるイスラムに偏重していることは覆い難いといわざるを得ません。例えば、パキスタンでは英国統治以来、赤十字社 Pakistan Red Cross Society という名称だったのですが、バングラデシュは早々にBangladesh Red Crescent Societyとなりました。もっとも、今ではパキスタンもRed Crescent Societyになってはいます。「パキスタン・イスラム共和国」なのですから無理もありませんが。
しかし、率直に言って、私は今もって、バングラデシュという国が歴史の必然かどうか、釈然としないものがあるのです。かつてこの地方はインドの東ベンガル州でした。これはインド亜大陸最大の人口を持つベンガル民族(今では約2億5千万人)を1905年に英国が東西に分離し、ムスリムとヒンディーの対立を煽り、反英運動が大きくまとまらないようにした結果のが、カルカッタ(現コルコタ)を中心とする西ベンガル州とダッカを中心とする東ベンガル州だったのですから。
1899年、ハーグで開かれた第1回万国平和会議で「ダムダム弾」の禁止が決まりました。この「ダムダム弾」こそ、反英運動鎮圧のために考案された不要の苦痛を与える弾丸でイギリス人の悪辣ささえ感じさせるものです。今のコルコタの空港は、「コルコタ・ダムダム空港」といいますが、まさにその辺りで「ダムダム弾」を製造していたのです。
バングラデシュについてさらに考えを進めますと、ほぼ3方がインドに囲まれ、南は海というバングラデシュ(南東方向の一部がミャンマーと国境を接しています)が軍隊を保持してどうするのか、国をどこから守るのか、守りうるのかというのも、未だに納得できないテーマです。ただ、このバングラデシュ軍、国連TPO活動では大活躍。バングラデシュにとって軍隊は失業対策でもあり、貴重な外貨獲得手段でもあるのです。
実は、1978年に同国を再訪したとき、かつての仲間たちが同国北部のマイメンシン州で400人を収容する孤児院の運営に大きく関わっていました。私はそこを一緒に支援するため、日本で募金活動を行い、読売新聞の協力もあって約600万円を集めることができました。
その使い道について、いろいろ相談した結果、孤児院側の案で、種付け牛を購入し、残りのお金で脱穀機、籾摺り機、精米機など一連の農機具を購入しました。近郷近在から牛と稲束が運び込まれ、孤児院はしっかりした財政基盤を構築できたのです。
私の要請は3つありました。①女子の孤児も同数、養育すること、②この資金が新たな資金を産む活用ができること、③ヒンズー教徒の人たちが困ったときにはしかるべく応援すること、でした。①と②は見事に果たしてくれましたが、世俗国家であるはずのバングラデシュですが、③は今もって実現していないようです。
ところが、その孤児たち、卒園後、多くがそのバングラデシュの軍人に成ってゆくのです。幼いときからの集団生活が軍隊生活に有効に役立つようなのです。何とも複雑な思いですが、見守るより他にありませんでした。
インドとバングラデシュの国境付近には互いに何百という飛び地を持っています。これは、1つの集落があれば、その集落の人々全員がイスラム教かヒンズー教になっているため、国境付近でこんなにもたくさんの「外国にある自国領」、即ち飛び地が出来てしまったのです。
両国とも、植民地主義に反対し、世俗国家であるというのなら、私はバングラデシュがインドの東ベンガル州になるとか、西ベンガル州もバングラデシュといっしょになって、「新バングラデシュ」になってもおかしくないという疑問を持ってきました。さきにバングラデシュの国歌はアジア出最初にノーベル賞を授与されたラビンドラナート・タゴールの詩によるものと書きましたが、インドの国歌もまた同じタゴールの作詞になる曲です。そのタゴールは西ベンガルはコルコタ出身のヒンズー教徒なのです。
しかし、印バ両国はそれどころか、ガンジス川の下流域の水の分配で、長年、対立を続けるということさえしてきたのです。
「合併しても…」の疑問は、両国の国旗を眺めながら、今も頭の中にすっきりとしないまま、残っています。「歴史とはそんなもの。ドイツとオーストリアだって同じさ」と欧州通の友人は切り捨てるのですが、もっと考えてみます。みなさまはどう思われますか?