ワシントンDCの日本大使公邸
21世紀は、2001年9月11日、アメリカで発生した同時多発テロで始まりました。この写真はワシントンDCの日本大使公邸。事件発生から13日経った9月24日、再開された航空便の最初のフライトでワシントン入りした、小欄が撮影したものです。
この世界的悲劇で驚いたのは、同盟国日本の首相官邸や外務省、国会議事堂の国旗がいっこうに半旗にならなかったこと。私は翌朝から、この3つに電話をして、弔意を表すためにすぐ半旗にするようにと申し入れましたが、いつまで経っても手ごたえなし。
日本ではアメリカ大使館は翌日から、他の大使館のほとんどが2、3日中にそれぞれの国旗を下げました。民間では、アメリカ大使館の前にある日本財団が尾形武寿常務理事(現・理事長)の指示で、翌朝から半旗にしました。ご立派です。
結局、官邸と外務省は8日後、国会議事堂は9日後の20日から半旗にしたのでした。この面でも危機管理がなっていませんでした。ちなみに、10年後の「3.11」東日本大震災では3者とも2日後から半旗になりました。それでも駐日アメリカ大使館より遅いのです。
さて、ワシントンの日本大使館。大使公邸ともども事件発生直後の午前中から、半旗にしたそうです。
時の大使は、柳井俊二氏(1937~)。外務官僚として最高の地位である外務事務次官を経ての駐米大使就任。その後、国際海洋法裁判所判事を経て2011年10月、日本人としてはじめて、同裁判所長に選出されました。そう書くといかにもふんぞり返った権威主義者のようになってしまうのですが、柳井さんは大変な紳士ではありますが、全くそんな人ではありません。若手外交官や「若い我等」を大いに可愛がり、ご指導くださいます。
1990年代の中ごろ、対人地雷を全面禁止しようと、難民を助ける会が絵本『地雷ではなく花をください』(文・柳瀬房子、絵・葉祥明、監修・吹浦忠正)を製作し、啓発にあたっていました。日本がオタワ条約というこの地雷禁止条約に加入するか否かの議論のさなか、この本は世論構築に決定的な役割を果たしたと自負しています。
柳井俊二さん
このときには、柳井外務事務次官は外務省の売店をはじめ、個人的な行き付けのレストランやバーにまで、この絵本の委託販売を斡旋してくださり、おかげでこの絵本は本体の日本語・英語版だけでも58部も頒布され、収益はすべて、カンボジアとアフガニスタンでの地雷撤去作業を中心に、アフリカやアフガニスタンなどでの地雷回避教育に充てられています。
ところで、「9.11」事件の直後に、3,000人もの非戦闘員が同時に殺害されるという事態に私はいても立ってもいられず、アメリカを訪問(これが私のアメリカ初訪問!)し、ワシントンで柳井大使に表敬しました。
エルベ川から望む国際海洋法裁判所(ハンブルク)
柳井さんは駐米大使在任中、「9.11」事件のわずか4日後(9月15日)、時のリチャード・アーミテージ国務副長官との非公式会談で、「Show the flag!」(旗幟鮮明にしろ)と伝えられたと毎日新聞 2001年9月18日付 夕刊で報道され、さまざまな憶測を生みました。
日本政府にはかねて、湾岸戦争の時に、130億ドルという多額の戦費を負担しながら人的貢献がなかったことで国際的に孤立した「トラウマ」にも似た感情があり、同時多発テロに対抗する米国の報復行動に対して、先進各国の支援・協力体制が急速に広がる中で、早くから、後方支援でも自衛隊を派遣したいという意向が強かったといわれる。その際、米政府きっての知日派でもあるリチャード・アーミテージ国務副長官が柳井大使に「ショー・ザ・フラッグ」と発言したことが、大きな圧力となったともいわれています。これがどう作用したかはつまびらかではありませんが、政府は、憲法の枠内で何ができるかを検討し、時限立法としての「テロ対策特別措置法案」を立案、可決させました。かくして、燃料など物資の提供や人員の輸送、非戦闘地域での医療活動、掃海艇の派遣などを任務とする自衛隊の後方支援を可能にする道が開かれました。
R.アーミテージ国務副長官(1945~)
ベーカー駐日米大使はその後、日本記者クラブでの講演で、この「ショー・ザ・フラッグ発言」について「これは英語の慣用句。『旗幟(きし)鮮明にせよ』ということを意味したのではないか。自衛隊派遣まで考えてなかったと思う」との見方を示したことがあります。
ただ、日本国内では一般的に「(戦場またはその周辺で)日の丸を見せてほしい」と訳され、米側が自衛隊による後方支援を非公式に打診した、または迫ったと受け止められたという見方があります。ただ、当事者である柳井大使は同年10月に予定通り帰任し、記者会見で「アメリカ側の発言は自衛隊の派遣を強要するような内容ではなかった」と説明しました。
その後の柳井さんは、2007年には安倍晋三首相が設置した私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の座長として、集団的自衛権に関する憲法解釈の見直しを検討するリーダー役を務めましたが、安倍内閣の退陣によりこの議論は政府内で公式には止まったままになっています。
昨年は、岡崎久彦元駐タイ大使とともに、3人(+美女若干名)で麻布のピアノバーでたっぷりと「自己満足的」歌合戦(失礼!)をしました。翌朝、柳井さんは国際海洋法裁判所の仕事のためにハンブルクに飛び発たれました。そうそう、8月4日には紀尾井ホールで師事している声楽の荒井先生一門の「発表コンサート」に歌手・柳井俊二として出演する予定で、今から楽しみにしています。