1976年5月、稀代の冒険家・植村直己は1年半をかけて北極圏12,000キロを犬ぞりで単独走破に成功しました。
これはその時、関係国の国旗を掲揚する植村です。ご承知とは思いますが、国旗は、上から日本、カナダ、デンマーク、アメリカです。国旗は各120×180㎝のエクスラン製に見えます。日本での3回のオリンピックでは、開閉会式に旗手が掲げた国旗の大きさですから4枚いっしょにというのはかなりの力仕事のように思います。
ここに至るまでの植村のプロフィールを簡単に見てみましょう。
1970年、日本山岳会は創立65周年事業としてエベレスト(チベット語=チョモランマ、ネパール語=サガルマータ。8,844または8,846m)登頂を決定し、植村は抜群の体力と登山技術が認められ、補助的立場であったはずが、最終段階で松浦輝夫とともに第1次アタック隊に選抜されました。そして5月11日、南東稜からエベレストの登頂に成功しました。しかし、植村は、大量の隊員を動員しながら、一握りの者しか登頂できない極地法による高所登山に疑問を持ったのでした。
同年8月、植村はマッキンリー(デナリ。6,194m。北米大陸の最高峰)単独登頂に成功、世界初の五大陸最高峰登頂者となりました。その後、71年、冬季のグランド・ジョラス(4,208m)北壁に挑みました。アイガー、マッターホルンと並ぶアルプス3大北壁と言われる難所です。この時、他の隊員は凍傷で手足の指を失う中で、植村は高久幸雄とともに五体満足で登頂を果たし、下山しました。
植村が遭難したマッキンリー(デナリ)
この後、植村は南極横断への準備を開始、1971年8月、南極横断距離3000kmを体感するため、51日間をかけて、同距離となる北海道・稚内市から九州・鹿児島市までの国内縦断を実行しました。
諸般の事情から南極横断を北極圏での12,000km犬ぞりによる走破に切り替え、グリーンランド北部でのエスキモーとの共同生活を経たのち、1974年12月から1976年5月まで1年半かけてこれに成功。さらに1978年には、犬ぞりで人類史上初の北極点単独行を果たし、日本人として初めてナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾りました。世界的な名声と評価はさらに続き、イギリス王室からも冒険家への特別な章を授与されました。
数々の栄光に包まれ、多くの支援者を得て、1984年2月12日、植村43歳の誕生日にアラスカのマッキンリーで世界初の厳冬期単独登頂に成功しました。しかし、翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となってしまったのです。その後、後輩にあたる明治大学山岳部が2度、捜索隊を派遣したのですが、発見されませんでした。わずかに植村が登頂の証拠として山頂付近に立てた「日の丸」の旗竿と、最終キャンプ地の跡に残された植村の装備の一部が遺品として発見されただけでした。現在に至るまで遺体は発見されていません。日本政府は1984年4月19日、国民栄誉賞を受賞して追悼し、称揚しました。
また、デンマーク政府は1984年6月19日、1978年グリーンランド縦断の際の到達点であった「ヌナタック峰」を、植村の功績を称え「ヌナタック・ウエムラ峰」と名づけることにしました。